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南無阿弥陀仏の回向の [親鸞の和讃に親しむ(その98)]

(8)南無阿弥陀仏の回向の

南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり(第51首)

南無阿弥陀とどくとき、その徳ひろく不思議にて、自分の利益だけでなく、ひとにも利益およぼせり

往相回向と還相回向の関係についてはすでに『高僧和讃』の曇鸞讃において取り上げられていましたが、ここであらためて詠われます。二種回向は、まず往相、次いで還相というように切り離されているのではなく、往相がそのまま還相であるということでしたが、さてではこの和讃の「往相回向の利益には 還相回向に回入せり」という言い回しをどう理解したらいいでしょう。これを伝統的な教えのなかにおいて読みますと、まず浄土へ往く道を歩ませていただき、それが成就したのちに再び穢土に還ってきて利他教化のはたらきに回入させていただくというように理解できます。今生において穢土から浄土へ往き、来生に浄土から穢土に還るという具合ですが、こうした理解は、浄土をこの穢土とは別の世界(アナザーワールド)と見ることから生まれてきます。

しかし、繰り返し述べてきましたように、浄土とはどこか別のところにある世界ではなく、ひとつの世界意識に他なりません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかで生かされていると気づいたとき、目の前に浄土が開けるのです。それに気づいたときに浄土が生まれるのではありません、もうずっと前から「ほとけのいのち」のなかで生かされていたのですが、それにまったく気づかずに過ごしてきたということです。もうすでに浄土のなかにいたことにはたと気づいたのです。これが「往相回向の利益」に与ったということですが、それがそのままで「還相回向に回入せり」で、往相回向とは別に還相回向があるのではなく、往相回向に与ることがはからずも還相回向のはたらきをしているのです。

曽我量深氏の印象的なことばをお借りしますと、われらは往相回向という自分の「前姿」しか見ることができませんが、他の人たちは還相回向というわれらの「後姿」と見ているということです。子は親の後姿を見て育つと言われますように、われらは「ほとけのいのち」に生かされている自分をありがたく思っているだけですが、その後姿を見る人はそこに如来の還相回向を見ているのです。


タグ:親鸞を読む
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