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「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」 [「親鸞とともに」その71]

(3)「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」

さてむこうから聞こえてくるこの如来の「こえ」というのが「ほとけの願い」に他なりませんが、それとわれらの個々の願いとはどのような関係にあるでしょうか。

「ほとけの願い」と「わたしの願い」の関係を考えるために「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」の関係を明らかにしなければなりません。「ほとけのいのち」と言いますと、個々の「わたしのいのち」とは別に、どこかに何か「大いなるいのち」があるように受け取られるかもしれませんが、それはキリスト教など一神教のイメージで、浄土教において「ほとけのいのち」(「無量のいのち」のことで、それを「阿弥陀仏(アミターユス)」とよびます)と言うときは、個々の「わたしのいのち」の総和を意味します。総和と言いましても、すべての「わたしのいのち」を容れる容器のようなものではなく、あらゆる「わたしのいのち」のつながりの総体のことです。

「わたしのいのち」たちは個々バラバラに存在しているのではなく、それぞれが互いにつながりあい、そのつながりによってはじめてそれぞれの「わたしのいのち」が成り立っています。たとえば人間の身体は数多くの器官が複雑につながりあい、そのつながりによって身体としてのはたらきをしているとともに、それぞれの器官もまた、他の器官とつながることにより、その機能を発揮することができます。もし一つの器官が他の器官とのつながりを絶たれ、身体から取り出されますと、身体全体に影響が及ぶとともに、その器官自体がもはやその機能を停止してしまいます。

そのように「ほとけのいのち」とはあらゆる「わたしのいのち」の無尽のつながりに他ならず、個々の「わたしのいのち」はそのつながりによって生かされているのです。そして「わたしのいのち」はあるとき生まれ、またいつの日か死んでいきますが、それもまたすべて「ほとけのいのち」のなかのことです。すなわち「わたしのいのち」の生まれ故郷は「ほとけのいのち」であり、そしてまたいずれ「ほとけのいのち」のなかに帰っていくということです。

「わたしのいのち」はそれぞれの戸籍をもっていますが、その本籍はみな「ほとけのいのち」です。


タグ:親鸞を読む
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