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「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」 [「親鸞とともに」その70]

(2)「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」

すでに本願念仏の教えのなかにいる人には「はじめに願いありき」ということに説明の必要はありませんが、そうではない人は「本願って何だよ、そんなのはただの物語でしょ」と言われることでしょう。確かに法蔵菩薩が誓願をたてたというのは物語ですが、「はじめに願いありき」ということ自体は紛れもない事実です。ただこの事実は客観的にどこかにあるものではなく、一人ひとりがみずからそれに気づいてはじめてあらわれます。みずから気づくと言いますのは、ある「こえ」が聞こえてくるということで、『歎異抄』の第2章にその具体的な姿が示されています。

本願を信じるとはどういうことかについてまだ確信を持てない弟子たちが関東から京の親鸞をはるばる訪ねてくるのですが、親鸞が彼らに与えたことばは「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」という一見そっけないものでした。しかしこのことばは「本願とは何か」という問いに対するこれ以上はないと言えるような答えであると言わなければなりません。すなわち親鸞の耳に直接聞こえてきたのは「よきひと」法然聖人の「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という声ですが、しかし親鸞はこの声を通して、どこかからやってくる如来の「こえ」を聞いているのです、「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」と。

もし親鸞がただ法然の仰せを聞いているだけでしたら、このあとに「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」という途方もないことばがくることが理解できません。法然の声を通して如来の「こえ」が確かに届いたからこそ、そしてそれが身に沁みたからこそ、「念仏して地獄におちたりとも云々」という驚くべきことばが親鸞の口をついて出たのです。この如来の「こえ」が聞こえることによって救いが得られるのではありません、それが聞こえたこと自体が救いであり、それさえあればもうほかに何もいらないと思えるものです。


タグ:親鸞を読む
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