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11月24日(土) [『歎異抄』を読む(その192)]

 第18章で扱われる最後の異義は「お布施の多少によって、大きな仏になれるか小さな仏にしかなれないかの違いが生じる」というものです。これまでは信心や念仏について論じてきたのですが、ここにきて急に世俗的な生々しい話題になったような気配です。宗教の問題から経済の問題へと急転回したように思えます。そして、お布施の多少なんて救いにとって本質的ではなく、取るに足りない問題だと感じます。「地獄の沙汰も金次第」と言いますが、まさか「極楽の沙汰もお布施次第」なんてことはないだろうと言いたくなります。
 ぼくらは経済的なこと、もっとはっきり言って、お金の問題なんて人生の一大事ではないと思っています。そりゃお金がなければ困るに決まっているが、でもお金なんていうのは何か大事なことのための手段に過ぎない。だからお金によって大事なことが左右されるようなことがあってはならないと思っています。とりわけ宗教家たるものは、お金のことなんか全く意に介せずに、人生の一大事に当たらなければならないと思います。しかし実を言うと、口では「お金なんか」と言いながら、みんなお金に深く執着しているのではないでしょうか。お金にまつわるこうした問題にこそ一番本質的なことが潜んでいるのかもしれません。
 しかし、その前に、仏に大小があるかという問題が取り上げられます。仏に色や形があるのか、そもそも仏とは何かという問題です。ここでは「経典に阿弥陀仏の姿についていろいろに説かれているのは方便に過ぎず、本来仏には色も形もありません」とさらりと触れられているだけですが、では色も形もない仏とは何なのかと考え始めますと大変なことになります。ぼくらは浄土や仏と聞きますと、どうしても色や形のある何ものかを思い浮かべます。色も形もないなどと言われると取り付く島がなくて、そんなものどこにあるのかと感じてしまうのです。

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