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1月19日(土) [はじめての親鸞(その23)]

 あるとき「わたし」は誰かの「あなた」になっているかもしれません。でも、それはたまたま「わたし」が誰かにとっての「あなた」になっただけのことで、「わたし」が誰かに救いを与えたということではありません。「わたし」が誰かに救いを与えたと思ったが最後、それは救いでも何でもありません。ただの思いあがりです。救いはあくまで「あなた」から与えられるのです。
 救いはどんなに頑張ってもこちらから「会う」ことはできず、思いがけず「遇う」ことができるだけということを述べてきました。これが他力のほんとうの意味です。しばしば他力とは「自分の力で何とかしようとするのではなく、他人の力に頼ること」とされます。救いについても、自分では何ともならないから、神や仏に頼るのが他力だと。「神さま、仏さま、お助けください」と頼む、これが他力だとされます。とんでもない誤解です。お願いしますと頼むのは紛れもなく自力です。
 「求めよ、さらば与えられん」と言われます。これは一見他力のような顔つきをしていますが、実は純然たる自力のことばです。何を求めるにせよ、求めることはすべて自力だからです。「求めるのをやめよ、さらば与えられん」。これこそ他力のことばです。親鸞に言わせれば、「わがはからひ」を捨てなさい、そうすれば「おのずから」救われるのですということになります。

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