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〈場〉としての「ぼく」 [生きる意味(その47)]

(18)〈場〉としての「ぼく」
 ややこしい話が続いて申し訳ありませんが、「ぼくの痛み」にもう少しこだわりたいと思います。
 ぼくの痛みはぼくだけの痛みで、ぼくの中に閉ざされているという発想にはどこか大きな誤解があるのではないでしょうか。ここでもう一度デカルトの「われ思う、故にわれあり」に戻りたいと思います。これが誤解の大本ではないかという気がするからです。
 「ものを思う以上、思っているぼくがいる」。これは一点の曇りもなく確かです。デカルトがこれを新しい哲学の原点しようとしたのも頷けます。しかし、これは大きな誤解の原点にもなったのではないでしょうか。
 目の前で大きな木が涼しげにそよいでいます。これを絵に表しますと、画面一杯に涼しげな大木が描かれ、ぼくはどこにも登場しません。しかし、それが「ぼくは大きな木が涼しげにそよいでいるのを見ている」の絵になりますと、画面の中にぼくが描かれるでしょう。
 「痛い!」の絵には、ぼくが登場しませんが、「ぼくの膝に痛みが走った」の絵では、ぼくが顔をしかめて描かれました。
 「大きな木が涼しげにそよいでいる」を絵にする場合、ぼくはその絵のカンバスにすぎず、絵の中にはいませんが、「ぼくは大きな木が涼しげにそよいでいるのを見ている」の絵の場合は、ぼくはその出来事の登場人物になります。
 もうお分かりでしょう。カンバスとしてのぼくは「いる」ぼくで、登場人物としてのぼくは「する」ぼくです。

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