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福音を伝えられるか [『一念多念文意』を読む(その122)]

(14)福音を伝えられるか

 救われる人と救われない人の差ではありません、ひとりの例外もなく救われることに気づいた人とまだ気づかない人の差です。
 気づかなくても救われることには変わりありませんが、しかし気づかないということは、救われることを喜べないということです。気づかない人は生きている限り苦しみ続けることになります。そこで晴佐久氏は言います、「だからこそ、教会は救いの宣言を使命としているのだ」と。すでに救いに気づいた人―晴佐久司祭です―が、まだ気づかない人に福音を伝えなければならないということです。
 しかし、ここも気になるところです。「教会は福音を伝えるところ」でしょうか。
 そもそも福音(「いかなる条件もなく“すべての人”が救われる」)は誰かが伝えることができるものでしょうか。それはあくまでイエスから聞かせてもらうしかないのではないでしょうか。そして、いかなる条件もなく「すべての人」が救われるだけでなく、「すべての人」が救われるという福音が「すべての人」に届けられていなければなりません。そうでなければ首尾一貫しません。しかし、どういうわけか、福音が聞こえる人と聞こえない人がいるのですが、これはもうどうしようもなく、聞こえない人に聞かせてあげようとしても、できるものではありません。
 では教会とは何なのか。
 そこは福音を伝えるところではなく、福音を喜ぶ人たちが集うところではないでしょうか。福音に遇えたことをともに喜びながら、それを日々の生活の中に生かせていくことを語りあう場だと思うのです。ところが、福音の伝道こそわが使命と考えるところからさまざまな争いが生まれてきます。金子大栄氏のことばが頭に残っています。本願をひろめようと思う必要などない、本願はインフルエンザのようなもので、勝手にひろまっていくのだ、と言われるのです。ぼくはこのことばに目が覚めた思いがしました。

                (第8回 完)

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