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「くすり」と「病人」 [『浄土和讃』を読む(その144)]

(11)「くすり」と「病人」

 ところが親鸞は『観経』のメインテーマである「浄土を観る方法」については一切触れず、韋提希に浄土の教えが説かれるに至った経緯だけを問題にします。親鸞としては「浄土を観る方法」は方便として説かれたにすぎないのであって、肝心なのは浄土の教えが明らかにされる「機縁が熟する」ということです。『教行信証』の序で「しかればすなはち浄邦、縁熟して調達闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業、機あらはれて釈迦韋提をして安養をえらばしめたまへり」と述べられていたのがそれです。
 いかに素晴らしい法(本願)があっても、それを受け止める機(衆生)がいなければ、存在しないのと同じです。
 本願はよく「くすり」に譬えられます、『大経』は「くすり」について説かれた経であると。それでいきますと、『観経』は「病人」について説かれた経ということです。どんなに勝れた「くすり」があっても、それを必要とする「病人」がいなければ、存在しないのと同じことです。本願という「くすり」を必要とする「病人」がいるということは、まず、自分が「病人」であると気づいていること、そして、その病気にはこの「くすり」が効くと気づいていることです。
 それが善導の言う「機の深信」と「法の深信」です。
 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」であると気づくこと、これが自分は「病人」であると自覚することです。そして「かの願力に乗じてさだめて往生をう」と気づくこと、これがこの病気には本願という「くすり」が効くと信じることです。さて、韋提希は紛れもなく凡夫ですが、彼女に「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という気づきはあるかどうか、『観経』ではそこが定かではありません。その点はむしろ『涅槃経』において阿闍世にはっきり現われています。

タグ:親鸞を読む
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