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「われ」への囚われ [はじめての『高僧和讃』(その24)]

(7)「われ」への囚われ

 無色の阿頼耶識に自分色をつけるのが末那識で、その末那識について天親はこう言います、「四の煩悩と常に俱(とも)なり。謂わく我癡(がち)と我見と幷(なら)びに我慢と我愛となり」(『唯識三十頌』第六頌)と。我癡・我見・我慢、我愛の四つは煩悩の原型とも言うべきもので、釈迦が「わがもの」への囚われと言ったものに相当するでしょう。のちに第六識(意識)のところで、貪・瞋・痴をはじめとする六つの煩悩、さらには20もの随煩悩が出てきますが、それらのおおもとにあるものです。
 「こころ」の深層(無意識層)にそのような「われ」や「わがもの」への囚われがあると見たところに唯識の功績があります。
 そしてここに唯識と浄土との接点があるのではないでしょうか。親鸞は「天親菩薩はねんごろに 煩悩成就のわれらには 弥陀の弘誓をすすめしむ」と詠いますが、「煩悩成就のわれら」というところで『唯識三十頌』の天親と『浄土論』の天親をつなぐ接点を見ていると思うのです。われらの「こころ」の深層に煩悩の種が宿っていて、それが表層に姿をあらわす以上(これが煩悩が成就しているということです)、そんなわれらには弥陀の弘誓にもたれるしか手がないということです。
 ところで、唯識の解説書を読んでいまして「うん?」と思うことがいくつかあります。何ひとつとして「こころ」と無縁のものはなく、したがって「こころ」のはたらきを明らかにすることが肝心であるというところまではいいとして、そこから、「こころ」の解明により「こころ」を変えることができると説いていくのです。しかし、はたして天親はそんなことを言っているのでしょうか。何ひとつとして「こころ」と無縁のものはなく、そして「こころ」の深層には煩悩の種が潜んでいるとしますと、どのようにしてその「こころ」を変えることができるのでしょう。ぼくらにできるのは「こころ」をめぐる真実に気づくことだけではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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