SSブログ

「こころ」の深層 [はじめての『高僧和讃』(その23)]

(6)「こころ」の深層

 だいたい路傍の石ころが「こころ」とどういう関係があるのか、と言われるでしょう。石ころは石ころとしてそこにあり、そのこととぼくの「こころ」とは縁もゆかりもないように思えます。しかし、何かに気をとられていて、うっかりその石ころにつまずいたときのことを考えてみましょう。ぼくにとって、それまでその石ころは存在しませんでした。つまずいてはじめてそこに邪魔な石ころがあることに気づき、そこではじめてその石ころはこの世に存在するようになったのです。
 いや、それはきみにとっての話であって、きみが気づこうが気づくまいが、そんなことにお構いなくその石ころは存在していたし、これからも存在するだろう、と言われるでしょうか。
 おっしゃる通りかもしれませんが、しかしそう言うあなたはどこにおられますか、と尋ねたくなります。あなたが世界のすべてを見とおしている神のようなお方でしたら、そうも言えるでしょうが、よもやそんなふうには思っておられないでしょう。そして万が一にも自分は世界の隅々まですべてを見とおしていると言われるとしても、路傍の石ころは神のようなあなたの「こころ」との関係においてはじめて存在するのであって、「こころ」と無縁に存在するわけではありません。
 唯識とは何かという話が長くなってしまいましたが、とにかく「一切のものは『こころ』に縁ってある」と説くのが唯識であると言えます。その上で唯識は「こころ」のはたらきについて細かく探求していきます。そこに深入りする余裕はありませんが、何といっても阿頼耶識と末那識という「こころ」の深層に関して卓越した考えを示してくれます。阿頼耶識の「阿頼耶(アーラヤ)」とは「蔵」という意味で、そこにはこれまでに「こころ」がなしてきたあらゆることが蓄えられており、それがもととなってまた新たなはたらきが起こると考えられています。そして末那識(「末那(マナス)」とは「思う」という意味)はそうした阿頼耶識のはたらきに「自分の」という色をつけ、すべてを「自分の」こころのはたらきとみなすというのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。