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盲目的な衝動 [正信偈と現代(その71)]

(9)盲目的な衝動

 スピノザが「自己の有に固執しようと努める努力(コナトゥス)」と言い、フロイトが「リビドー」とよんだもの(これをぼくは「生きんかな」ということばで表してきました)と、仏教で煩悩(クレーシャ)と言っているものは別ものではないでしょう。生きとし生けるものにこうした盲目的な衝動があり、それがぼくらをさまざまな行動へと駆り立てているのです。しかしぼくらは普段それをそれとして意識していません。そんな得体のしれないものに駆り立てられているなどと思いもせず、何か高尚な目的をもって生きていると思い込んでいるのです。フロイト的に言いますと、そうした衝動を無意識の層に押し込め、なにくわぬ顔をして生きているのです。
 それで何ごともなく過ぎていけばいいのでしょうが、フロイトの患者の場合のように、思いもかけない症状として外に出てくることがあります。そんな激しいかたちをとらなくても、生きていることに対して漠然とした不安を覚えることはしばしばあるでしょう。「何処よりきたりて、何処にさるのか」という問いならざる問いとなって浮かび上がるかもしれません。人が宗教や哲学・思想というものに目を向けるようになるのはこんなときですが、この段階ではまだ不安の正体に気づいていません。不安というのは、それがどこから生じるか分からないから不安になるのです。
 不安をもたらしている正体に気づいたとき、不安は苦しみに転化します。不安を感じて気がふさぎ、こころが暗くなっていたのですが、その元に煩悩という盲目的な衝動があるということに気づいたとき、それははっきりした苦しみとなります。これが「生きることはすべて苦しみである」という気づきであり、また「苦しみの元は煩悩である」という気づきです。「生きることは<すべて>苦しみである」と言われるのは、生きることの根っ子に煩悩という盲目的衝動があり、それにはひとつとして例外がないからです。

タグ:親鸞を読む
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