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ひとつ心 [正信偈と現代(その111)]

(10)ひとつ心

 ここで「三心釈」を細かく追うことはできませんが、親鸞は要するに本願の至心・信楽・欲生の三心はみな法蔵の心であると言っているのです。
 第18願に「十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生まれんとおもふて」ときますと、至心も信楽も欲生もみなわれら衆生の心だと受けとります、われらが心から信じて往生したいと思う、というように。ところが親鸞は意表を突くことを言うのです。われらの心のどこをほじくりまわしても、至心や信楽や欲生といった心は微塵もない、だから法蔵はそれらをわれらに回向して(与えて)くださるのだと。第18願は「十方の衆生が心から信じて往生したいと思えば云々」と言っているのではなく、「十方の衆生が心から信じて往生したいと思うようにしたい」と誓っているということです。
 欲生について親鸞はこう言っています、「欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふ勅命なり」と。親鸞は行巻で「南無」についても同じような言い回しをしていました。南無すなわち帰命と言えば、われらが弥陀に帰命すると受けとるが、そうではなく「帰命は本願招喚の勅命なり」と。ここに親鸞浄土教を解く鍵があります。法蔵は「信じて往生したいと思いなさい、そうすれば救おう」と言っているのではなく、「信じて往生したいと思う心を回向しよう」と言っているのです。そのことに気づくこと、それがそのまま救いなのです。
 一心とは信心です。そして、信心とはさしあたっては天親が法蔵を信じることです。しかし天親が法蔵〈を〉信じる限り、法蔵は天親の外にいます。天親は離れたところにいる法蔵に呼びかけることになります、「あなたに帰命します」と。でもそれはほんものの信心ではありません。ほんものの信心は、法蔵が天親に呼びかけている「帰っておいで」の声に「はい、ただいま」と応答することです。そのとき天親と法蔵はひとつです。一心とは天親と法蔵がひとつの心になっているということです。
 先に「広く本願力の回向に由りて、群生を度せんがために、一心を彰す」と言っているのが天親なのか法蔵なのか判然としなくなると言いましたが、それは天親と法蔵がひとつ心になっているということです。

                (第12回 完)

タグ:親鸞を読む
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