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それぞれの語り [正信偈と現代(その129)]

(8)それぞれの語り

 では真実の気づきをどう語るかについてはどうでしょう。これは先ほどから言いますように、人それぞれです。龍樹には龍樹の語りがあり、天親には天親の語りがあります(前者が中観とよばれ、後者が唯識とよばれます)。また曇鸞には曇鸞の語りがあり、龍樹的な要素と天親的な要素をかねそなえた浄土教の語りです。このようにそれぞれの人にピッタリくる語りがあり、それが真実の気づきを語っている以上(そこに真実があるかどうかは聞こえてくることばから判別できます)、どれもみな方便として有効です。それぞれの指のさす方をみれば、そこにはおなじ月があるのです。
 語る人にとってそれぞれピッタリくる語りがあるように、その語りを聞く人にとっても、とっつきやすい語りとそうでない語りがあるのは自然でしょう。そうしたなかで「論理的な語り」と「物語的な語り」の二つの大きな流れができてきたことはこれまで述べてきた通りです。聖道門は「論理的な語り」をとり、浄土門は「物語的な語り」をとりますが、どちらも真実の気づきを語る方便にすぎないという点で変わりはありません。親鸞はもちろん浄土門の側に身を寄せますが、だからといって聖道門を否定するようなことはありません。聖道門から学ぶべきことは学んでいこうという姿勢です。
 このように見てきますと、真実の気づきそのものについて、気づきのある人がまだない人を否定するいわれはありませんし、また気づきの語りについても、他の語りを否定するいわれはまったくないことが了解できます。かくして宗教につきものの排他性から離れることができますが、ただ「論理的な語り」に伴う困難については触れておかなければなりません。真実の気づきを論理のことばで語ろうとしますと、矛盾という困難に逢着せざるをえないということです。鈴木大拙はそれを「即非の論理」とよびましたが(「Aであり即ちAにあらず」)、これは要するに矛盾ということです。
 この問題は次回に明らかになってきます。

                (第14回 完)

タグ:親鸞を読む
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