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涅槃への道 [はじめての『尊号真像銘文』(その32)]

(9)涅槃への道

 「悪趣自然閉(悪趣自然に閉じん)」につづいて「昇道無窮極(道に昇るに窮極‐ぐごく‐なし)」とありますが、親鸞はこの一句について「昇はのぼるといふ。のぼるといふは、無上涅槃にいたる、これを昇といふなり。道は大涅槃道也。無窮極といふは、きわまりなしと也」と解説してくれます。悪趣の道はおのづから閉じましたが、それで道がすべて終わってしまうのではありません。それどころか、これから新しくほんとうの道、涅槃への道が始まるということです。
 この道は涅槃への道で、はるか彼方にある涅槃をめざして歩みつづけますが、でもその一歩一歩がすでに涅槃でもあるような道です。かならず涅槃に到る道ですから(それが不退転ということです)、涅槃はまだずっと先であるとしても、もう涅槃にいるのとひとしい。おたまじゃくしはまだ蛙ではありませんが、かならず蛙になるのですから、もう蛙であるのとひとしいと言えます。
 そしてこの道は無窮極、すなわち果てがないと言われます。この道がどうして無窮極かといいますと、われらは生きている限り我執から逃れることができないからです。われらは「これは我執だ」と気づくことができるだけで(それが我執のマインド・コントロールから逃れることです)、我執そのものから逃れることはできません。しばしば仏教は我執からの脱却を説くと言われますが、文字通り我執から脱却しますと、生きることそのものから脱却してしまいます。
 「これはわがものである」と愛着することが我執ですが、これをきれいさっぱり洗い流すことができるものでしょうか。お腹が空いていて、やっとの思いで食べ物が手に入り、さあ食べようとしたとき、横からさっと奪われたとしましょう。そのとき「何ということをする、それはぼくのものだ」と叫ばないでしょうか。平然として「この食べ物は自分に縁がなかったのだ」と諦めることができるでしょうか。いや、世の中にはそのような人がいるかもしれません。ひょっとしたらお釈迦さんはそのような人だったのかもと思います。でもぼくにはできない。

タグ:親鸞を読む
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