SSブログ

聞きがたくしてすでに聞くことを得たり [『教行信証』精読(その22)]

(10)聞きがたくしてすでに聞くことを得たり

 次に「聞く」ということ。本願に遇うということは、本願を聞くということです。
 聞くといっても、声や音が自然に耳に入ってくる場合と、音楽や話に耳をそばだてて聞く場合(こちらは聴くとすることが多いですが)があります。本願を聞くというときも、この二つの場合がありますから、きっちり区別することが肝要です。といいますのは、前にも少しふれましたように(5)、本願を聞くことを本願の「いわれ」を聞くことだとしてしまうことが多いからです。本願の「いわれ」を聞くのは「耳をそばだてて聞く」ことですが、本願そのものはむこうから聞こえてくるのです。この二つはまったく別であるということ、これを忘れることはできません。
 親鸞は「信巻」でこう言っています、「経に聞といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)をききて疑心あることなし、これを聞といふなり」と。ここで「仏願の生起本末」とありますのは、紛れもなく本願の「いわれ」のことで、それをしっかり耳をそばだてて聞かせていただくということです。ところが『一念多念文意』では同じ「聞其名号」について、こう言います、「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」と。「仏願の生起本末をきく」に代わり「本願の名号をきく」と言われ、また「本願をきく」とだけ言われます。これは本願(そして名号)がむこうから聞こえてくるということです。
 ぼくらは経典や善知識から本願というものについて、その「いわれ」を聞かせていただき、それについてあれこれと思い巡らしますが、それは本願(そして名号)が思いがけず聞こえてくることとは別のことです。本願の「いわれ」を聞かせていただくことがなければ、本願そのものが聞こえてくることはありませんが、その「いわれ」を聞かせていただいたからと言って、本願そのものが聞こえたということにはなりません。本願について語られることばを聞くことと、本願そのものを聞くことはまったく別のことです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問