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本文2 [『教行信証』精読(その79)]

(5)本文2

 本文1につづく文です。初地が歓喜地である所以が述べられます。

 問うていはく、初地なんがゆゑぞ名づけて歓喜とするやと。答へていはく、初果1の究竟して涅槃に至ることを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心つねに歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増長することを得。このゆゑにかくのごときの人を賢善者と名づくること得と。初果を得るがごとしといふは、人の須陀オン道2(しゅだおんどう)を得るがごとし。よく三悪道の門を閉づ。法を見て法に入り、法を得て堅牢の法に住して傾動(きょうどう)すべからず。究竟して涅槃に至る。見諦所断の法3を断ずるがゆゑに、心大いに歓喜す。たとひ睡眠し懶惰(らんだ)なれども二十九有4に至らず。一毛をもつて百分となして、一分の毛をもつて大海の水を分ち取るがごときは、二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし。二三渧のごとき心、大きに歓喜せん。菩薩もかくのごとし。初地を得をはるを如来の家に生ずと名づく。一切天、龍、夜叉、軋闥婆(けんだつば、楽を奏し、仏法を護持する八部衆の一)、乃至 声聞、辟支(びゃくし、独覚あるいは縁覚と同じ)等、ともに供養し恭敬(くぎょう)するところなり。なにをもつてのゆゑに。この家過咎あることなし。ゆゑに世間道を転じて出世間道に入る。ただ仏を楽敬(ぎょうきょう、つつしみ敬う)すれば四功徳処を得、六波羅蜜の果報を得ん。滋味もろもろの仏種を断たざるがゆゑに、心大きに歓喜す。この菩薩の所有の余の苦は二三の水渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といへども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海の水のごとし。このゆゑにこの地を名づけて歓喜とすと。
 注1 小乗の声聞が得る四果の第一。注2の須陀オン道と同じ。ちなみに第二が斯陀含(しだごん)、第三が阿那含(あなごん)、第四が阿羅漢(あらかん)。
 注2 預流果(はじめて法の流れに預かるという意味)ともいい、四諦をえて見惑(真実を見誤ることから生じる迷い)を断じた境地。
 注3 注2にある見惑のこと。
 注4 二十九生ということ。二十八回までは人天に転生することはあるが、それ以上は苦界に戻ることはない、という意味。

 (現代語訳) どうして初地を歓喜地と名づけるのでしょうか。それは小乗の声聞が初果を得ればかならず涅槃に至ることができるようなもので、大乗の菩薩が初地を得れば、いつもこころに喜びが満ちています。それは、如来の家に生まれて自然に仏となる種が育つからで、だからこのような人を賢善の人と名づけることができるのです。小乗の初果に譬えますのは、人が預流果を得ますと、地獄・餓鬼・畜生に転じる門が閉じられ、四諦の法をえて、その法に住むことで、どんなことにもぐらつかないようになり、この後かならず涅槃に至るからです。もう見惑を断じていますから、こころに大きな喜びがあります。そしてたとえどんなに怠けていても、決して二十九有にいたることはありません。それをひとつの譬えでいいますと、一本の毛を百分して、そのひとつで大海の水を分かち取ろうとするとき、たった二三滴のような苦しみがなくなるだけで、大海の水はそのままのようなものです。しかしその二三滴のような心に大きな喜びがあります。菩薩も同じです。初地をえますと、如来の家に生まれることができ、仏法を守護するという天・龍・夜叉・軋闥婆をはじめ、声聞や独覚にみなともに供養され、敬われるのです。どうしてかといいますと、この如来の家にはどんな傷もないからです。世間道を転じて出世間道に入り、ただ仏を喜び敬うだけで四功徳処と六波羅蜜の果報をえることができるのです。すばらしい味わいの仏の種がなくなることはありませんから、こころに喜びが溢れるのです。この菩薩に残っている苦しみはたった二三滴の水であり、ほとけの悟りに至るのはずっと先であるとしましても、無始よりこのかたの苦しみと比べますとたった二三滴にすぎません。なくなってしまった苦しみは大海の水のようなもので、だからこの初地をなづけて歓喜地というのです。

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傍受 [『教行信証』精読(その78)]

(4)傍受

 親鸞は『十住論』のこの部分、「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。この二法よりもろもろの如来を生ず。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」を読むとき、般舟三昧を名号に、大悲を光明に置き換えて読んでいたのではないでしょうか。龍樹にとってそんなことは思いもよらず、般舟三昧も大悲も菩薩が初地に至るための自利利他の修行に他ならないでしょうが、それを読む親鸞には、弥陀の名号と光明に遇うことができたとき、如来の家に生まれ、ほとけのいのちを生きることができるようになると聞こえてきたと思うのです。
 ふと「傍受」ということばが浮びました。このことばが印象に残ったのは、『まどさん』という本の「あとがき」の中でした。詩人・安西均氏が、まどみちおの「戦中日誌」から「ひぐれのうす暗がりに、誰やらが三階から下へ手旗を送っている。『マリベレス ノ ユウヤケ』」という一節を引用して「夕陽を眺望する以上に深い、傍受者の心躍りがある」と言い、さらに「詩とは傍受であろう。幽かな〈存在者〉が、この世に絶えず送りつづけてゐる鈍い通信を、目を凝らし耳を澄まして傍受することであろう」と述べられているのですが、秘かな通信を傍受するとは何とインパクトのあることばでしょう。
 親鸞は龍樹の「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。この二法よりもろもろの如来を生ず。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」という暗号を、「まことにしんぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずば、所生の縁そむきなん」と傍受したのではないでしょうか。親鸞の傍受はまだ続きます。『十住論』に「またつぎに般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり」とあるのを、「能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、過去の業による識別作用のこと)にあらずば、光明土にいたることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名(光明と名号)の父母、これすなはち外縁とす」と傍受したように感じられるのです。
 名号と光明がそろっても、それに気づく信心が欠けていると何にもならないということですが、『十住論』の「無生法忍」という暗号を親鸞は「信心」と傍受しているのです。

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ほとけのいのちを生きる [『教行信証』精読(その77)]

(3)ほとけのいのちを生きる

 ぼくはしばしば本願信楽の境地をあらわすのに「ほとけのいのち」を生きるという言い方をしてきました。これまではひたすら「わたしのいのち」を生きてきたが、本願・名号に遇うことができたとき、「わたしのいのち」を生きるままで「ほとけのいのち」を生きていることに気づく、というように。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」でなくなるわけではありません。その点ではこれまでと何の違いもないのですが、これまではただひたすら「わたしのいのち」であったものが、本願信楽の暁には「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」でもあることに気づくのです。
 これまたよくつかう譬えで恐縮ですが、おたまじゃくしはひたすら「おたまじゃくしのいのち」を生きているのですが、あるときふとこのいのちは「蛙のいのち」でもあることに気づくようなものです。「おたまじゃくしのいのち」を生きているのはいままでと何も変わりませんが、こののちかならず蛙になることに気づき、「おたまじゃくしのいのち」がそのままで「蛙のいのち」でもあると思える。そのように、これまではただの「わたしのいのち」としか思っていなかったのが、あるときふとこれは「ほとけのいのち」でもあるではないかと気づくのです。これが本願・名号に遇うということです。
 さて「如来の家に生まれる」とは「ほとけのいのちを生きる」ことに他なりません。如来の家に生まれるということは、こののちかならずほとけになるということですから、もうすでに「ほとけのいのち」を生きているということです。おたまじゃくしはかならず蛙になるのですから、すでに蛙のいのちを生きているように。このように見てきますと、「般舟三昧および大悲を諸仏の家となづく」ということばも、これまでにはなかった相貌を帯びてきます。「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」ということばから、「行巻」の後半に出てくる一節、「まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずば、所生の縁そむきなん」が頭に浮かんできます。親鸞はこの文で名号という父と光明という母から往生という子が生まれてくると言っているのですが、これが「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」とダブって映ってくるのです。

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如来の家に生まれる [『教行信証』精読(その76)]

(2)如来の家に生まれる

 経典から論釈に入って最初の引文ですが、ここまで読まれてどう感じられたでしょうか。弥陀の名号を称することが行巻の主題であるはずなのに、この龍樹の文はそれとどう関係するのだろうと戸惑われたのではないでしょうか。「般舟三昧」とか「無生法忍」といったことばは浄土の教えに親しんでいるものにはどうにも馴染みにくく、どうして親鸞はこれを論釈からの引用の最初においたのだろうという疑問がわきあがります。
 『十住毘婆沙論』(以下『十住論』と略称)という書物は、『華厳経』の「十地品」(独立した経としては『十地経』と言います)を注釈するもので、菩薩が修行を積み重ねる五十二階位のうち第四十一位の初地から第五十位までの十地について説いています。その『十住論』の「入初地品」、「地相品」、「浄地品」、「易行品」からかなりのボリュームの文が引用されるのですが、この文は「入初地品」からです。
 『華厳経』のもとの文は「則生如来家、無有諸過咎、即転世間道、入出世上道、是以得初地、此地名歓喜」で、これに龍樹が注釈を施しているのです。
 最初の一句「則生如来家」について、「如来の家に生まれる」とは、菩薩が十地のなかの初地に入るということであると解説してくれます。この家に生まれたら、王家に生まれた長子はかならず王になれるように、かならず仏になれるのですから、初地とは正定聚不退の位に他ならないことが分かります。親鸞はここに眼を付けたに違いありません。初地というのは如来の家に生まれることだとすると、それは浄土の教えにおいては弥陀の本願・名号に遇うことができ、正定聚不退となることに当たるではないか、と。
 『華厳経』の十地についての教えと、それについての龍樹の注釈が、浄土の教えと何の関係があるのかと思いますが、親鸞にとっては聖道門の初地の教えと浄土門の正定聚不退の教えがひとつに結びついているのです。そこからしますと「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」ということばもまったく新しい相貌を帯びてきます。それにしても「如来の家に生まれる」という言い回しには何とも言えないいい味わいがあるではありませんか。

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本文1 [『教行信証』精読(その75)]

             第7回 行巻(その3)

(1)本文1

 真実の行は弥陀の名号を称することであると諸経典から明らかにしたあと、祖師たちの論釈からの引用がつづきます。その最初にくるのが龍樹の『十住毘婆沙論』です。

 『十住毘婆沙論』にいはく、「ある人のいはく、般舟三昧1(はんじゅざんまい)および大悲を諸仏の家と名づく。この二法よりもろもろの如来を生ず。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。また次に般舟三昧はこれ父なり、無生法忍2はこれ母なり。『助菩提3』のなかに説くがごとし。般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この二法より生ずと。家に過咎(かぐ)なければ家清浄なり。かるがゆへに清浄は、六波羅蜜4、四功徳処5なり。方便・般若波羅蜜は善慧なり。般舟三昧・大悲・諸忍、この諸法清浄にして過(とが)あることなし。ゆゑに家清浄と名づく。この菩薩、この諸法をもつて家とするがゆゑに、過咎あることなし。世間道を転じて、出世上道に入るものなり。世間道をすなはちこれ凡夫所行の道と名づく。転じて休息となづく6。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界7を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに、名づけて入とす。この心をもつて初地8に入るを歓喜地と名づくと。
 注1 現前三昧、仏立三昧とも言い、仏が眼の前に現れる三昧(禅定)。
 注2 真如の法(無生)をさとる(忍)こと。真如の法は不生不滅であることから無生という。
 注3 『菩提資糧論』の偈文。龍樹作と伝えられる。
 注4 彼岸に渡るための六つの行。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧。
 注5 菩薩が法を説く際に必要な功徳。諦(真実を説く)・捨(すべてを施す)・滅(名聞利養の心を滅する)・慧(智慧)。
 注6 「転は休息となづく」と読むべきか。
 注7 欲界・色界・無色界。迷いの世界。
 注8 十地のはじめ。菩薩道52階位の第41位。

 (現代語訳) 『十住毘婆沙論』に次のようにあります。ある人はこう言われます。般舟三昧と大いなる慈悲を諸仏が生まれる家と名づける。この二法から諸仏が生まれるからであり、そのなかで般舟三昧を父、大いなる慈悲を母とすると。また般舟三昧が父であり、無生法忍が母であるとする考えもあります。『菩提資糧論』に、般舟三昧という父と大いなる慈悲・無生法忍という母からすべての諸仏は生まれると説かれている通りです。
 この家にはどんな傷もなく清浄です。清浄といいますのは、この家に入るには、六波羅蜜と四功徳処が必要であるとされたり、方便と般若波羅蜜、すなわち智慧の二つが善慧として必要であるとされたり、あるいはまた先に上げたように、般舟三昧と大いなる慈悲・無生法忍が必要であるとされたりしますが、いずれにしてもこれらはすべて清浄であり傷はありませんから、この家は清浄であると言われるのです。初地の菩薩はこれらによって如来の家に生まれたのですから、どんな傷もありません。
 この菩薩は世間道を転じて出世間道に至った人です。世間道とは凡夫の歩む道であり、転じてといいますのは、その道を歩むのをやめるということです。凡夫の道はどこまでも涅槃に至ることができず、いつまでも生死の迷いの中にありますから、これを凡夫の道と言うのです。出世間といいますのは、この道により三界の迷いの世界から出ることができますから、これを出世間道と名づけるのです。出世「上」道とありますのは、この道が優れているからであり、「入る」とは、まさしくこの道を歩むから入るというのです。この心をもって初地に入るのを歓喜地と言います。

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一切の無明を破すとは [『教行信証』精読(その74)]

(16)一切の無明を破すとは

 親鸞の書くものを読んでいますと、彼は来生のことを語るのをできるだけ避けようとしているような気配を感じます。まったく語らないわけではありません。なにしろ浄土の経典には「寿終ののち」のことが説かれているのですから、それにふれないわけにはいかないでしょう。しかしそういうときも自分から進んで来生のことを語ることはないように思えるのです。また浄土経典につきものの浄土の荘厳やそこにいる聖衆たちのありさま(読んでいていちばん退屈するところです)についてもできるだけふれないようにしていると感じられます。
 親鸞は「信巻」に現生十益を上げますが(「一には冥衆護持の益、二には至徳具足の益,云々」と)、来生十益を上げることはありません。親鸞としては、この現生において「われらの無明が破られ」「われらの志願が満たされ」たら、もうそれ以上なにを望むことがあろうかという感覚ではないでしょうか。たしかに現生において「一切の」無明煩悩が破られることはありません。正信偈に「すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり(已能雖破無明闇、貪愛真瞋憎之雲霧、常覆真実信心天)」とありますように、本願・名号に遇うことができても無明煩悩の雲霧から解放されることはありません。
 無明の闇を破ることができても、無明煩悩の雲霧が覆っているという、一見矛盾した事態についてはこう言うべきでしょう。われらにとって無明の闇が破られるということは、無明の闇のただなかにいると気づくことに他ならないと。無明の闇にありながら、無明の闇のなかにあると気づかないことが正真正銘の無明の闇であり、それに気づいたときはすでに無明の闇が破られているのです。ソクラテスにとって最高の知は、自分が無知であることを自覚することであるように、われらにとっての最高の知は、自分が無明の闇のなかにいると気づくことです。

                (第6回 完)

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一切の無明を破し、一切の志願を満てたまふ [『教行信証』精読(その73)]

(15)一切の無明を破し、一切の志願を満てたまふ

 南無阿弥陀仏は、いわゆるマントラのように、それを称えることにより、もともとそれに備わっている不思議な力(われらの「無明を破し」「志願を満てたまふ」力)を自分のものとするものではありません。
 南無阿弥陀仏は真実のことば(真言)に間違いありませんが、それはどこかにあって、われらがそれを手に入れてくる(ゲットする)のではありません。それはあるときふとむこうから聞こえてきて、そのときすでにそれにゲットされているのです。むこうから聞こえてくることばをわれらが受けとり、それをわれらが真言と判断するのではありません。そうではなく、それが聞こえたこと、それにゲットされたこと自体が、それが真言であることの何よりの証拠です。なぜなら、そのときすでにわれらの無明が破られ、われらの志願が満たされているのですから。
 さて、名号はわれらの「無明を破し」「志願を満てたまふ」ということについて、これには二つの意味があると昔から言われてきました。ひとつは「われらの一切の無明煩悩を破り」、「われらの一切の志願を満たす」という意味で、もうひとつは「本願を疑うという無明を破り」、「浄土往生という志願を満たす」という意味であるとして、前者は当益(来生において得られる利益)で、後者が現益(今生の利益)だと言うのです。なるほど分かりやすい解釈だとは思いますが(生きている限り、一切の無明煩悩が破られることはないでしょうから)、でもこれが親鸞の意にかなうとは思えません。
 そもそも現益と当益とに分けるという発想はいかがなものでしょう。それが浄土真宗の伝統なのかもしれませんが(現当二益とは誰が言い出したのか、覚如か存覚か、あるいは蓮如でしょうか)、親鸞その人にそのような発想があるでしょうか。今生においてどんな利益があるかはもちろん肝心要ですが、来生の利益について何かを積極的に語ることができるでしょうか。来生を見てきた人は一人もいないのに、一体どのようにしてそれを語ればいいのでしょう。
 「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」と語るのが親鸞という人です。

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本文6 [『教行信証』精読(その72)]

(14)本文6

 諸経典からの引用の後、それを集約して親鸞は次のようにのべます。

 しかれば、名(みな)を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、しるべしと。

 (現代語訳) このように、弥陀の名号を称することは、よく衆生のあらゆる無明を破り、またよく衆生のあらゆる願いを満たしてくれます。称名はこの上なくすぐれた正しい行であり、正しい行はすなわち念仏であり、念仏とはすなわち南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏はすなわち真実の信心です。よく知らなければなりません。

 短い文で念仏の本質を言いつくしています。最初の文は、ほぼ曇鸞『論註』の「かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」という文そのままですが、ただ曇鸞は「名号は」と言っているのに対して、親鸞は「みなを称するに」と言いかえています。名号そのものが「無明を破し」「志願を満てたまふ」とするのと、われらが名号を称することによってそのような利益が与えられるとするのと。これは前にも述べましたように、親鸞にとって名号と称名はひとつであり、「名号は云々」と言うのと「称名は云々」と言うのは同じことです。
 このことは、たとえば真言宗ではマントラ(真言)そのものに力があり、これを唱えることによりその力をえることができると説かれますが、それと同じことでしょうか。一見よく似ていますが、しかしマントラを唱えることと名号を称えることはまったく異なります。両者の違いを明らかにすることは念仏という行を理解する上で本質的ですので、少し時間をいただきたいと思います。家永三郎という歴史家(教科書裁判で有名です)は親鸞の思想をきわめて高く評価しましたが、「ただ、念仏はどうも」と言われます。彼は親鸞の近代性に焦点をあてて評価するのですが、そこからしますと念仏が古い呪術にうつるのでしょう。彼には南無阿弥陀仏が一種のマントラに見えるのですが、これはしかし根本的な錯誤であると言わなければなりません。

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もろもろの善本を修して [『教行信証』精読(その71)]

(13)もろもろの善本を修して

 この願は、一見したところ『大経』の第十八願によく似ていますが、「もろもろの善本を修して」という文言と、「それ捨命ののち」という文言においては、『大経』の第十九願や第二十願に類似しています。『大経』の第十九願には「もろもろの功徳を修め」、「寿終のときにのぞんで」とあり、第二十願には「もろもろの徳本をうへて」とあります。このように『悲華経』のこの願は『大経』の第十八,十九,二十の三願が未分化の状態で混在していると言えます。のちに明らかになりますように、親鸞はこの三願の違いを重視し、「化身土巻」において詳しく論じていますが、その結論を取り出しますと、第十八願が真実の願であり、第十九願と第二十願は方便の願であるということです。
 その議論のエッセンスを親鸞は関東の弟子に宛てた手紙の中で分かりやすく述べていますので上げておきましょう。「来迎は諸行往生(さまざまな行を修めることにより往生をめざす)にあり。自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあふて、すゝめらるゝときにいふことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚のくらゐに住す。このゆゑに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」(『末燈鈔』第一通)。
 「もろもろの善本を修して」と「それ捨命ののち」は分かちがたく結びついているということです。さまざまな行(そのなかには念仏行も含まれます)を修めることによって往生しようとすること(諸行往生)と、その往生はいのち終わって後のことである(臨終往生)のはひとつのことです。諸行により往生しようとする人の眼は未来を向いていて、その先には臨終の来迎があります。臨終において阿弥陀如来が観音・勢至をはじめとする聖衆とともに迎えに来てくださるのを夢みて諸行に精を出すのです。その人は「いまだ真実の信心をえざる」と親鸞は言います。では真実の信心をえた人はというと、「信心のさだまるとき往生またさだまるなり」で、もう未来の臨終をまつことはありません、来迎をたのむこともありません。もうその足下に浄土が現在しているのですから。

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本文5 [『教行信証』精読(その70)]

(12)本文5

 経典からの引用の最後として『悲華経』から引かれます。

 『悲華経』の「大施品(実際は大施品ではなく諸菩薩本授記品。親鸞の勘違いか)」の二巻にのたまはく、曇無讖三蔵(どんむしんさんぞう、インド出身の訳経僧。五胡十六国時代の人)の訳 「願はくは、われ阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、無上正徧知と訳し、仏のこの上ない悟りのこと)を成りをはらんに、無量無辺阿僧祇(あそうぎ、無央数と訳し、数限りないこと)の余仏の世界の所有(しょう)の衆生、わが名を聞かんもの、もろもろの善本を修してわが界に生ぜんと欲(おも)はん。願はくは、それ命を捨てての後、必定して生を得しめん。ただし五逆と聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとをば除かん」と。以上

 (現代語訳) 『悲華経』の大施品の第二巻にこうあります(この経は曇無讖三蔵の訳です)、「わたしが仏の悟りをひらくときには、数限りない諸仏の世界の衆生が、わが名を聞いて、もろもろの功徳を積み、わが浄土に生まれたいとおもえば、そのものたちがいのち終わった後に、かならずわが国に生まれるようにしたい。ただし五逆罪のものと、仏・菩薩などの聖人を誹謗するものと、正法を破るものは除く」と。

 これまで引用されたのは『大経』およびその異訳からで、『悲華経』は浄土経典としては傍流に属しますが、そこには法蔵菩薩のたてた四十八願が成就して阿弥陀仏となるという話とほぼ同じ構図がでてきます。『大経』では法蔵菩薩が世自在王仏に誓願をたてるとなっていますが、それが『悲華経』では、無諍念王という転輪聖王が、その臣下であった宝海梵志の子である宝蔵如来のもとに出家して誓願をたてるという筋立てになっています(法蔵菩薩=無諍念王、世自在王仏=宝蔵如来)。その願のひとつがここに引用されているのです。

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