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本文6 [『教行信証』精読(その151)]

(15)本文6

 本文5につづく箇所です。

 また『弥陀経』にいふがごとし。もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなはち名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終らんとする時、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らん時、心顛倒せず、すなはちかの国に往生することを得んと。仏、舎利弗に告げたまはく、われこの利を見るがゆゑにこの言を説く。もし衆生ありてこの説を聞かんものは、まさに願を発し、かの国に生ぜんと願ずべしと。次下(しも)に説きていはく、東方の如恒河沙等の諸仏、南西北方および上下一々の方に如恒河沙等の諸仏のごとき、おのおの本国にしてその舌相を出して、あまねく三千大千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、なんだち衆生、みなこの一切諸仏の護念したまふところの経を信ずべしと。いかんが護念と名づくると。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至一声、乃至十声一念等に及ぶまで、かならず往生を得と。この事を証誠(しょうじょう、証明)せるがゆゑに護念経と名づくと。次下の文にいはく、もし仏を称して往生するものは、つねに六方恒河沙等の諸仏のために護念せらる。ゆゑに護念経と名づくと。いますでにこの増上の誓願います、憑(たの)むべし。もろもろの仏子等、なんぞこころを励まして去(ゆ)かざらんやと。智昇法師の『集諸経礼懺(らいさん)』の下巻は善導大士の『礼懺』なり。これによる。

 (現代語訳) また阿弥陀経にはこうあります。衆生が阿弥陀仏の本願を聞くことができたなら、一日、二日、ないし七日の間、一心に称念すべきです。いのち終わらんとするとき、阿弥陀仏がもろもろの聖衆たちと目の前に現れたまい、その人は臨終にあたって心が顚倒することなく、ただちに往生することができます。仏は舎利弗に告げて言われます、わたしはこの利益を知っているから、このように説くのです。もし衆生がこのことを聞くことができたなら、かの国に往生せんと願うべきですと。またこうもあります。東方の無数の諸仏たち、あるいは南西北方および上下の方におわす無数の諸仏たちは、それぞれの本国において、その舌相を示して、世界の隅まで聞こえるように、真実の言葉を説かれます、汝ら衆生よ、みなこの一切の諸仏が護ってくださる経典を信じるべきだと。どうして護念の経典と名づけるかといいますと、もし衆生が弥陀の名号を、七日、一日、いや一声、一念でも称えれば、かならず往生できると、諸仏が証明してくださるから護念経というのです。さらにはこうもあります、名号を称えて往生するものは、いつも六方の無数の諸仏に護られているということで護念経というのです。いますでにこの優れた誓願があるのですから、それをたのむべきです。もろもろの仏弟子たちよ、どうしてこころをはげまして往生しようとしないのか、と。智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻は善導和尚の礼懺です。これによりました。

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衆生称念すれば、かならず往生を得 [『教行信証』精読(その150)]

(14)衆生称念すれば、かならず往生を得

 護念の益も同じです。「一切時・一切処に、悪鬼悪神をしてその便りを得しめざる」というのは、念仏すれば悪鬼・悪神が災いをもたらすことがなくなり、どんな病気からも、どんな災害からも護られるということではありません。もしそうでしたら、これほど結構な護符はありませんが、念仏はそんな便利な護符ではありません。では護念の益とは何か。念仏したからといって病気にかからないわけでも災害に遭わないわけでもありませんが、そうした災難が往生の障りにならなくなるということです。どんなひどい災難のなかにあろうと、そのままで往生できるということです。災難が往生の障りとならなくなれば、もう災難でなくなったようなものです。これが「悪鬼悪神をしてその便りを得しめざる」という意味です。
 このように見てきますと、滅罪の益も護念の益も、結局は「摂取され往生できる」ということ、すなわち摂生の益に尽きることが分かります。この摂生の益は「もしわれ成仏せんに十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生ぜずは正覚をとらじ」という法蔵の誓願に集約されています。これは言うまでもなく第18願で、それが善導流にアレンジされています。語句が省略されたり、また加えられたりすることから、第18願加減の文とよばれますが、「至心信楽、欲生我国」が省かれ、「乃至十念」が「わが名号を称せん、下十声に至るまで」とより具体的に言われています。信心よりも念仏に重きが置かれているのですが、大事なのは「衆生称念すれば、かならず往生を得」ということです。念仏すればかならず摂取され往生できるということ、これが摂生の益です。
 さてここで考えたいのは、摂生の益もまた現世の利益であり、「いますでにこの勝益まします」と言われていることです。滅罪の益や護念の益が「いますでに」であるのは明らかですが、摂生の益もまた「いますでに」と言われますと、こころがざわつかないでしょうか。経には、浄土に往生するのは「いのち終らんとするとき」であると書いてあるからです。これにつづく文を読んで、そのあたりをどう考えたらいいのか、思いを廻らせたいと思います。

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現世の利益 [『教行信証』精読(その149)]

(13)現世の利益

 善導は『往生礼讃』の最後に当たり、弥陀の名号を称えて往生を願うことで、この現世でどんな利益があるのかと問います。そしてそれに答えて、まず滅罪の利益、次いで護念の利益(悪鬼・悪神による災いから護られるという利益)、さらに摂生の利益(摂取され往生できるという利益)を上げています。この後、本文6で証生の利益(往生が証明されるという利益)が上げられるのですが、これらはこの少し後に取り上げられる『観念法門』において五種増上縁としてまとまった形で示されます(滅罪増上縁、護念増上縁、摂生増上縁、証生増上縁に見仏増上縁が加わります)。
 親鸞も「信巻」において「現生十益」を上げていますが、そのなかの「転悪成善の益」が滅罪増上縁に、「冥衆護持の益」および「諸仏護念の益」が護念増上縁に、そして「入正定聚の益」が摂生増上縁に当たると考えられます。このように善導も親鸞も念仏にはこの世においてさまざまな利益があると言うのですが、これをいわゆる「現世利益」との関係においてどう考えたらいいのか、滅罪を例に思いを廻らしたいと思います。「もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなはちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す」というのは、一回念仏することで、これまで積み重ねてきた罪が一挙に消えてしまい、悪人が善人に変身するということでしょうか。
 もしそうだとしますと、念仏は驚くべき魔法だと言わなければなりませんが、そういう意味ではないでしょう。釈迦は魔術を否定し覚醒を目指しましたが、善導も親鸞もその教えを受け継いでいるはずですから、名号を呪文として称えることで罪が消えると考えているとは思えません。では滅罪の益とは何か。念仏したからといってこれまでの罪が消えるわけではありませんが、その罪がもう往生の障りとなることはなくなるということです。罪は罪としてそのままで往生できるということです。罪が往生の障りでなくなれば、もう罪でなくなったようなものです。これが「よく八十億劫の生死の重罪を除滅す」という意味だと考えられます。

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本文5 [『教行信証』精読(その148)]

(12)本文5

 本文4のあと『往生礼讃』の最後として次の文がきます。

 またいはく、「問うていはく、阿弥陀仏を称念し礼観して、現世にいかなる功徳利益があるやと。答へていはく、もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなはちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念以下(いげ)もまたかくのごとし。『十往生経』にいはく、もし衆生ありて、阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏すなはち二十五の菩薩を遣はして、行者を擁護して、もしは行もしは坐、もしは住もしは臥、もしは昼もしは夜、一切時・一切処に、悪鬼・悪神をしてその便りを得しめざるなりと。また『観経』にいふがごとし。もし阿弥陀仏を称し礼念してかの国に往生せんと願へば、かの仏すなはち無数(むしゅ)の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣はして、行者を護念したまふ。また前の二十五菩薩等と百重千重行者を囲繞(いにょう)して、行住坐臥、一切時処、もしは昼もしは夜を問はず、つねに行者を離れたまはずと。いますでにこの勝益まします。憑(たの)むべし。願はくはもろもろの行者、おのおの至心を須(もち)ゐて往くことを求めよ。また『無量寿経』にいふがごとし。もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん。下十声に至るまで、もし生れずは正覚をとらじと。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と。

 (現代語訳) また『往生礼讃』の後序にこうあります。お尋ねします、阿弥陀仏の名号を称えたり、礼拝・観察することで、この世でどんな利益があるのでしょうか。お答えします、阿弥陀仏の名号を一度称えることで、八十億劫にもわたって重ねてきた罪が滅除されます。礼拝・憶念も同様です。十往生経には、衆生が阿弥陀仏を称念して往生を願えば、仏は二十五菩薩をつかわし、行住坐臥を問わず、昼夜を問わず、一切のとき、ところにおいて、悪鬼や悪神から行者を護ってくれると説いてあります。また観経には、衆生が阿弥陀仏を礼拝・称念して往生したいと願えば、仏は無数の化仏や化観音・化勢至菩薩をつかわし、行者を護ってくれ、また先の二十五菩薩などと百重・千重に取り囲んで、行住坐臥、一切のとき、ところにおいて、つねに行者から離れることはないと説いてあります。この世ですでにこの優れた利益があるのですから、たのむべきです。願わくば、行者たちよ、おのおの心から浄土往生を求めようではないか。また大経にはこう説かれています。わたし法蔵が成仏するときには、世界中の衆生がわが名号を称えるであろう、それがたった十声であっても、もし往生できないようなら、正覚をとることはありません、と。法蔵は現に成仏しておいでになります。この深重の誓願は成就されているのですから、だれでも称念すればかならず往生できると知るべきです。

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本文4 [『教行信証』精読(その147)]

(11)本文4

 次は善導の『往生礼讃』後序の文です。

 またいはく、「現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。苦しみいふべからず。いま善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心に称念して往生を求願せよ。願はくは仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはざれば、弟子を摂受(しょうじゅ)したまへり」と。已上

 (現代語訳) またこうあります、わたしは生死の迷いの中にある凡夫として六道を輪廻してきました。その苦しみは言うこともできません。ところがいま善知識に遇うことができ、弥陀本願の名号を聞くことができました。一心に念仏し往生を願いたてまつります。弥陀の慈悲は、弘誓願を捨てられるはずはありませんから、この弟子を摂取してくださること疑いありません。

 最後の一文は、「願はくば」で始まりますから、「摂受したまへ」と読むのが筋ですが、親鸞は「摂受したまへり」と読みます。その意図は明らかでしょう。われらが「一心に称念して往生を求願す」るから、「弟子を摂受したま」うのではないということです。それだと念仏が往生のための条件となってしまいます。そうではなく、「仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはざれば、弟子を摂受したまへり」と気づいたから、「一心に称念して往生を求願す」るのです。
 こちらから一生懸命願うから、その願いに応えてもらえる、のではなく、むこうから一生懸命願われているから(そのことに気づいたから)、「一心に称念して往生を求願す」るのです。願うから、かなえられる、のではなく、願われているから、願う、のです。そして願われていることに気づいているのですから、願うだけで、それはもうすでにかなえられています。法蔵の「若不生者、不取正覚」の願いは、われらがそれに気づいたとき、それだけですでに救いのはたらきをするというのはそういうことです。

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名を聞きて [『教行信証』精読(その146)]

(10)名を聞きて

 善導の「初夜礼讃」の偈文は『大経』の経文から取られています。ここに引用された最初の偈文は、いわゆる「往覲偈(おうごんげ)」の二つの偈文をひとつに合わせて作られています(「如来の智慧海、深広にして涯底なし」と「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到り、おのづから不退転に致る」)。そして第二の「たとひ大千に満てらん火にも云々」と、第三の「万年に三宝滅せんに云々」という偈文はいずれも『大経』「流通分」の経文に依って作られています。
 親鸞は「初夜礼讃」の二十四偈から三つの偈文を選んで引用しているのですが、共通するのは「名を聞きて」というところです。「名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る」という点に注目して引いていると思われます。名号を聞くことができれば、もうそれだけでかの国に往生できるということ、いや、名号を聞くことができたそのことが、かの国に往生できたことに他ならないということ、親鸞にとってここに浄土の教えの根幹があります。
 すでに述べてきましたように、名号は称えるより前に聞こえるものです。向こうから南無阿弥陀仏と聞こえるから、それに応じてこちらから南無阿弥陀仏と称える、この順序が肝心です。すぐ前のところで、念仏するから光明に照らされるのではなく、光明に照らされていることに気づくから念仏すると言いましたが、同じことです。本文2に「弥陀世尊もと深重の誓願をおこして、光明名号をもて十方を摂化したまふ」とあったのを思い起こしたい。弥陀は光明と名号をもってわれらを摂取不捨してくれるということです。
 誰かにかけられた願いは、相手に届かなければ力となりません。法蔵菩薩は一切衆生を救いたいという願いを立てましたが、そしてそれを世自在王仏に誓いましたが、それだけではただの願い、ただの誓いにすぎません。その誓願を一切衆生に届ける方策を同時に立ててこそ、ただの誓願ではなく願力となってはたらくことができます。その方策というのが光明と名号であるということです。光明が一切衆生に照らされ、名号が一切衆生に届けられることにより、法蔵の願いがわれらに通じ、そのこと自体が救いの力となるのです。

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ただ念仏の衆生を観そなはして [『教行信証』精読(その145)]

(9)ただ念仏の衆生を観そなはして

 「ただ念仏の衆生を観そなはして」という言い回しからは、弥陀仏は念仏の衆生を見つけだして、その人だけを摂取不捨すると受けとめられかねません。そうしますと、念仏することが往生の条件となり、その条件を満たすものは往生できるが、そうでないものは往生できないというように選別されることになります。しかし先にこう言いました、第18願の「至心信楽、欲生我国、乃至十念」はわれらに往生の条件として課されている(aufgegeben)のではなく、往生とともに与えられている(gegeben)のだと。としますと、念仏すれば、往生の条件を満たして、めでたく往生できるが、念仏しなければ往生できない、のではないということです。
 では「ただ念仏の衆生を観そなはして」とはどういうことでしょう。あらためて『観経』の「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」という文において、光明と念仏はどのような関係にあるのかを考えてみたいと思います。これまで述べてきましたことから、まずわれらの念仏があり、しかるのちに弥陀の光明が照らされる、のでないことははっきりしています。もしそのような関係にあるのでしたら、念仏は光明(摂取不捨)の条件として課されていることになりますから。としますと、まず弥陀の光明が照らされ、しかるのちにわれらの念仏がある、としか考えられませんが、それはいったいどういうことでしょう。
 むかしから、どんなむかしよりももっとむかしから(十劫のむかしから)ずっと照らしつづけられている弥陀の光明にわれらが気づくかどうか、これです。気づかなければ弥陀の光明などどこにもありません。いや、ないということもありません。あることはもちろんないし、ないことすらない。小鳥がきれいにさえずる声が聞こえなければ(このところ耳鳴りに悩まされ、妻に「あの声が聞こえないの」と言われることがしばしばです)、その声は存在することも、存在しないこともありません。聞こえてはじめて、その声は存在するようになり、そして聞こえていなかったこれまではその声は存在しなかったのです。
 さて十劫のむかしからわれらを照らしつづけている弥陀の光明に気づいたらどうなるのでしょう。そのとき念仏の声が口から漏れ出てくるのですが、さてこれはどういうことか。それを次の「初夜礼讃」の偈文が明らかにしてくれます。

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本文3 [『教行信証』精読(その144)]

(8)本文3

 次に「日没礼讃」と「初夜礼讃」から引用がつづきます。

 またいはく、「ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てざるがゆゑに、阿弥陀と名づく」と。以上
 またいはく、「弥陀の智願海は、深広(じんこう)にして涯底(がいてい)なし。名(みな)を聞きて往生せんと欲(おも)へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千(三千大千世界)に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。万年(一万年後)に三宝(仏・法・僧)滅せんに、この経(大経)住すること百年せん。その時、聞きて一念せん。みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。抄要

 (現代語訳) また「日没礼讃」のところにこうあります、ただ念仏する衆生をご覧になり、そのものをかならずおさめ取って捨てられることはありませんから、阿弥陀仏と名づけるのですと。
 また「初夜礼讃」の偈にはこうあります、弥陀の本願の海は深くて広く、果ても底もありません。名号を聞くことができ往生したいと思えば、みなことごとく往生することができます。たとえ世界中が大火に満たされようと、そこを過ぎて名号を聞くことができさえすれば、喜びがわきあがり讃嘆の声がもれて、みな浄土に往生できます。一万年後に仏法僧の三宝は滅びますが、この『大経』だけは百年の間のこります。そのときに名号を聞くことができ一念すれば、みな浄土に往生することができます、と。

 「日没礼讃」の文は、善導が『観経』の「(弥陀の)光明、あまねく十方世界を照らし、念仏衆生を摂取して捨てたまはず」という文と、『小経』の「かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙するところなし。ゆへに阿弥陀と名づく」という文の意をとり、ひとつに合わせたものですが、これまたうっかり読みますと、落とし穴が待っています。

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第18願は [『教行信証』精読(その143)]

(7)第18願は

 ことは第18願の読み方に関わります。
 「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん(至心信楽、欲生我国、乃至十念)。もし生れざれば正覚を取らじ」という文言を何の気なしに読みますと、「十方の衆生が、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念すれば、そのものたちをわが浄土へ迎えよう。そうでなければ仏になるまい」と受け取ってしまいます。法蔵菩薩が十方の衆生に向かって、「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念しなさい。そうすればかならずわが浄土へ往生させよう」と呼びかけているように受け取るのです。
 しかしこのことばは法蔵が衆生に向かって語っているのではなく、世自在王仏に対して誓っているということに思い至れば、まったく違う響きがしてきます。「わたしが仏となるときには、十方の衆生が、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念するようにしたいと思います。そうしてそのものたちをわが浄土へ迎えたいと思います。もしそうでなかったらわたしは仏となることはありません」と聞こえてきます。法蔵は、十方の衆生が「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」すれば、と言っているのではなく、十方の衆生が「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」するようにしたい、と言っているのです。
 「われら」が「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」するという因をつくることで、かの浄土に往生するという果が与えられる、のではなく、「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」するという因もまたすでに与えられているということです。「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」することは「われら」に課されている(ドイツ語でaufgegeben)のではなく、それ自体がすでに与えられている(gegeben)のです。としますと、念仏するものは「十即十生、百即百生」であるのは当然ではないでしょうか、それが「仏の本願」なのですから。

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かの仏の願に順ずるがゆゑに [『教行信証』精読(その142)]

(6)かの仏の願に順ずるがゆゑに

 最後のところに「十即十生、百即百生なり。なにをもてのゆゑに。…仏の本願と相応することをうるがゆゑに」とありますが、この文から頭に浮ぶのが『観経疏』「散善義」のあの文です。「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近をとはず、念々に捨てざるをばこれを正定の業となづく。かの仏の願に順ずるがゆゑに」。「あの文」と言いましたのは、あるとき法然の目にこの文が飛び込んできて、それが機縁となって43歳の法然は山を下り、吉水に庵を結んで専修念仏の教えを人々に説きはじめることになったというあの因縁の文であるということです。
 なぜ専修念仏が「正定の業」、すなわち正しく往生が定まる行であるのかと言えば、それが「かの仏の願に順ずるがゆゑ」である―これを読んだ法然の目からうろこが落ちた。それまでの法然が善導の浄土教を知らなかったわけではないでしょう。それどころか罪悪生死の凡夫もただ念仏するだけで往生できるという教えに心ひかれていたに違いありません。でも薄皮一枚の疑いが残った。安楽浄土に往生して成仏するのに、たった一度の念仏でいいというのは、どんな根拠で言えるのか、それは仏道修行の常識に反するのではないか、というおそらく誰もが抱く疑問です。
 仏道修行の常識といいますのは、何らかの証果を得るためには、それなりの因を修めなければならないということですが、そこからしますと、安楽浄土に往生するという果に対して、その因がたった一度の念仏というのでは、あまりにバランスを欠いているではないかという疑いが起こってくるのは自然でしょう。その疑いの前に立ち止まっていたであろう法然の眼に「かの仏の願に順ずるがゆゑに」という一句が突き刺さってきたのです。そのとき法然は「そうだったのか、これまで何という思い違いをしていたのか」と思ったに違いありません。
 どういう思い違いかといいますと、これまでは「われら」が何らかの因をつくることで、往生という果をえられると思い込んでいたが、往生の因は「弥陀仏」がもうとうのむかしにつくってくださっているということです。

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