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本文2 [『教行信証』精読(その140)]

(4)本文2

 本文1のつづきです。

 また『観経』にいふがごとし。勧めて坐観礼念(観察・礼拝・念仏)等を行ぜしむ。みなすべからく面を西方に向かふは最勝なるべし。樹の先より傾(かたぶ)けるが倒るるに、かならず曲れるに随ふがごとし。ゆゑにかならず事の礙(さわり)ありて西方に向かふに及ばずは、ただ西に向かふ想をなす、また得たりと。
 問うていはく、一切諸仏、三身(法身・報身・応身)同じく証し、悲智果(慈悲と智慧の仏果)円にしてまた無二なるべし。方に随ひて一仏を礼念し課称せんに、また生ずることを得べし。なんがゆゑぞ、ひとへに西方を嘆じて専ら礼念等を勧むる、なんの義かあるやと。
 答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来(きた)し取(おさ)むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をして求念せしむれば、上一形(いちぎょう、一生)を尽し、下十声一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し。このゆゑに釈迦および諸仏、勧めて西方に向かふるを別異をすならくのみ。またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらざるなりと、知るべし。もしよく上のごとく念々相続して、畢命(ひつみょう、命終わるまで)を期とするものは、十即十生、百即百生なり。なにをもつてのゆゑに、外の雑縁なし、正念を得たるがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑなり」と。以上

 (現代語訳) また『観経』に説かれるように、礼拝・称念をするときには、すべからく西方に向かうのがよろしい。樹が倒れるとき、傾いている方に倒れるようなものです。何か障りがあって西に向かえないときは、西に向かっている思いをすればいいのです。
 お尋ねします。すべての仏は同じ悟りをひらかれ、その慈悲・智慧も同じであるはずですから、どちらの方角の仏でも礼拝し称念すれば、同じように往生できるのではないでしょうか。どうしてひとえに西方の阿弥陀仏への礼拝・称念を勧められるのでしょうか。
 お答えします。たしかに諸仏の悟りはみな平等で変わりはありませんが、ただ因位の願行を取り上げますと違いがないとは言えません。弥陀仏は因位において深重の誓いをたてられ、光明と名号により一切衆生を摂取しようと願われました。その誓願を信じ、往生を願えば、上は一生の間、下はたった一声、十声でも念仏することで、その願力により往生させていただけるのです。こんなわけで釈迦および諸仏は、特に西方に向かうよう勧められるのであり、他の仏を称念したら罪を滅して往生できないというわけではありません。上に言いましたように念々相続していのち終わるまで称念する人は、十人は十人ながら、百人は百人ながらみな往生できるのです。何故かといいますと、他でもありません、真実の信心によるからであり、仏の本願に相応しているからであり、仏の教えに背いていないからであり、また仏のことばに順っているからです。

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