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他力としての易しさ [『教行信証』精読(その141)]

(5)他力としての易しさ

 先ほどの二つ目の問答で、阿弥陀一仏を礼念するだけなのに阿弥陀仏だけでなく他の諸仏もあらわれるのはどういうわけかと問い、仏のとしての悟りに違いはないからと答えていましたが、それに関連するかたちで、ここでは、十方世界に諸仏がおわしますにもかかわらず、どうしてもっぱら西方の阿弥陀仏を礼念するのかという問いをたてて、それに答えています。たしかに諸仏の悟りは平等で何の差もないが、そこに至る因位の願行に違いがあるのだと。阿弥陀仏も他の仏たちと何も変わるところはないが、ただその本願において異なると言うのです。このように、ここでは法蔵菩薩の誓願に注目し、それを「光明名号をもて十方を摂化したまふ」と要約しています。そしてその誓願により「ただ、信心をして求念せしむれば、かみ一形をつくし、しも十声一声等にいたるまで、仏願力をもて往生をえ」ることができるというのです。
 先に「観ではなく称」であるのはなぜかという問いに、「難ではなく易」であるからと答えていました。しかしこの答えには危険な落とし穴があるということを述べてきました。それは、「われら」がこころをとどめて仏の姿を思い見ようとしてもできることではないが、その名号を称えることは易しいから誰でもできるというように、あくまで「われら」の視座から、つまりは自力の観点から見てしまうということです。自力の土俵の上で、難であるか易であるかを比較してしまうという危険です。そうではなく、観は自力であるのに対して、称は他力であるということ、ここに問題の本質があります。称は易であるというのは、自力としてではなく、他力として易であるということです。
 この他力としての易しさというのが、ここに出てきました「仏願力をもて往生をえ」るということに他なりません。この易しさは、念仏するだけで仏願力をえて往生できるのだから易しいということではありません。そうではなく、あるときふと仏願力がはたらいていることに気づいたとき、もうすでに往生しているのだから易しいということです。気づいたときにはもう往生していることほど易しいことはありません。では念仏はと言いますと、そのときの歓喜がことばとしてほとばしり出るものです。「帰っておいで」の声が聞こえて、即座に「はい、ただいま」と応答する、これが念仏です。

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本文2 [『教行信証』精読(その140)]

(4)本文2

 本文1のつづきです。

 また『観経』にいふがごとし。勧めて坐観礼念(観察・礼拝・念仏)等を行ぜしむ。みなすべからく面を西方に向かふは最勝なるべし。樹の先より傾(かたぶ)けるが倒るるに、かならず曲れるに随ふがごとし。ゆゑにかならず事の礙(さわり)ありて西方に向かふに及ばずは、ただ西に向かふ想をなす、また得たりと。
 問うていはく、一切諸仏、三身(法身・報身・応身)同じく証し、悲智果(慈悲と智慧の仏果)円にしてまた無二なるべし。方に随ひて一仏を礼念し課称せんに、また生ずることを得べし。なんがゆゑぞ、ひとへに西方を嘆じて専ら礼念等を勧むる、なんの義かあるやと。
 答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来(きた)し取(おさ)むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をして求念せしむれば、上一形(いちぎょう、一生)を尽し、下十声一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し。このゆゑに釈迦および諸仏、勧めて西方に向かふるを別異をすならくのみ。またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらざるなりと、知るべし。もしよく上のごとく念々相続して、畢命(ひつみょう、命終わるまで)を期とするものは、十即十生、百即百生なり。なにをもつてのゆゑに、外の雑縁なし、正念を得たるがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑなり」と。以上

 (現代語訳) また『観経』に説かれるように、礼拝・称念をするときには、すべからく西方に向かうのがよろしい。樹が倒れるとき、傾いている方に倒れるようなものです。何か障りがあって西に向かえないときは、西に向かっている思いをすればいいのです。
 お尋ねします。すべての仏は同じ悟りをひらかれ、その慈悲・智慧も同じであるはずですから、どちらの方角の仏でも礼拝し称念すれば、同じように往生できるのではないでしょうか。どうしてひとえに西方の阿弥陀仏への礼拝・称念を勧められるのでしょうか。
 お答えします。たしかに諸仏の悟りはみな平等で変わりはありませんが、ただ因位の願行を取り上げますと違いがないとは言えません。弥陀仏は因位において深重の誓いをたてられ、光明と名号により一切衆生を摂取しようと願われました。その誓願を信じ、往生を願えば、上は一生の間、下はたった一声、十声でも念仏することで、その願力により往生させていただけるのです。こんなわけで釈迦および諸仏は、特に西方に向かうよう勧められるのであり、他の仏を称念したら罪を滅して往生できないというわけではありません。上に言いましたように念々相続していのち終わるまで称念する人は、十人は十人ながら、百人は百人ながらみな往生できるのです。何故かといいますと、他でもありません、真実の信心によるからであり、仏の本願に相応しているからであり、仏の教えに背いていないからであり、また仏のことばに順っているからです。

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なぜ観ではなく称なのか [『教行信証』精読(その139)]

(3)なぜ観ではなく称なのか

 龍樹が「難行と易行」、曇鸞が「自力と他力」の対立軸をうちだし、そこに道綽が「聖道と浄土」という対概念をかぶせて、聖道門は自力で難行、浄土門は他力で易行という構図がつくられていくのですが、ここには危険な落とし穴があります。自力は難で、他力は易とすることは大きな誤解を招く恐れがあるのです。難といい、易というのは、普通は自力の土俵でのことであるということをあらためて確認しておきたいと思います。何かが難しいとか、易しいと言えるのは、それを自分でゲットしようとするからであり、自分の力に照らしてそれは難しい、易しいとなるわけです。それに対して、何かにゲットされるという他力の経験にはその意味での難も易もありません。気がついたときにはもうゲットされているのです。自力の世界に難と易があるのであり、他力には難も易もありません。
 「観ではなく称」であるのはなぜかと言いますと、「観は難で、称は易」であるからではありません、「観は自力で、称は他力」であるからです。
 しかし「称は他力」とはどういうことでしょう。口に南無阿弥陀仏と称えるのは、自分でそうしようと思ってしているはずですから、それが他力であるというのはいかにも理不尽に思えます。親鸞は「行巻」の後半で、「他力といふは、如来の本願力なり」と言いますが、名号を称えることは本願力のなせるわざなのでしょうか。われらが名号を称えるのではなく、本願力により名号が自動的に口から出てくるということでしょうか。しかしわれらは本願力に自在に操られる傀儡ではありません、あくまで自分の意思で名号をとなえています。ここをあやふやにしますと、何か怪しげな教えになってしまいます。
 どこかに本願力という神秘的な力があって、われらに直接はたらいていると理解すべきではありません。われらが気づいてはじめて本願力はその姿を現すのであり、気づくことがなければ本願力などというものはどこにも存在しないということ、これを忘れるわけにはいきません。そして本願力に気づくということは、われらに「帰っておいで」という願いがかけられていることに気づくことです。「帰っておいで」と願われていることに気づいたから、「はい、ただいま」とただちに応答するのです。「はい、ただいま」と応答するのは紛れもなくわれらですが、それは「帰っておいで」と呼びかけられているからということ、これが「称は他力」ということです。

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『往生礼讃』とは [『教行信証』精読(その138)]

(2)『往生礼讃』とは

 『往生礼讃』は正式には『勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃偈(一切衆生を勧めて、西方極楽世界の阿弥陀仏国に生ぜんと願ぜしむる六時礼讃の偈)』といい、この長い名前にこの書物の趣旨がよく示されています。この書物は前序と正明段と後述の三つの部分からなりますが、この引文は前序にあり、「一行三昧(ただ念仏だけ)」の意味を明らかにしています。因みに六時といいますのは、日没(にちもつ、午後4時ごろ)、初夜(午後8時ごろ)、中夜(午前0時ごろ)、後夜(午前4時ごろ)、晨朝(じんじょう、午前8時ごろ)、日中(午後0時ごろ)のことです。
 蓮如が朝夕の勤行に正信偈を取り入れたのはよく知られていますが、それ以前は、この六時礼讃が読誦されていたようです。
 さて、この文では、一行三昧(ただ念仏)について二つの問いが出され、それぞれに答えるかたちで論が進められます。一つは「なぜ観でなく称なのか」ということ、二つ目は「なぜ一仏を念じて多仏があらわれるのか」ということです。一点目のなぜ「観でなく称」かという論点は、善導が『観経疏』において、『観経』という経典は聖者を対象に「観仏」を説いているのではなく、凡夫を対象に「念仏(称名)」を説いたものであることを明らかにしたこと(そのことを古今楷定‐ここんかいじょう、古今の正しい基準を確定するの意‐と言います)に関わり、きわめて重要ですが、ここではその理由として「境(対象)は細なり、心は麁(そ、粗雑)なり。識あがり神とびて、観成就しがたきによりて」と述べるだけです。
 なぜ「観ではなく称」なのかという問いに、「観は難だが、称は易である」からと答えているのです。
 このような答え方は浄土教においてしばしば現れるものですが、よほど注意してかからないと思わぬ落とし穴にはまってしまいます。まず「難と易」という対概念は、普通には、自力の土俵において意味をもつものですから、「観は難だが、称は易である」と言われますと、つい観も称も自力であると思ってしまう危険があるのです。観も念もわれらが行としてしなければならないことだが、観は難しく称は易しいから、「観ではなく称」なのだと受けとってしまうのです。

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本文1 [『教行信証』精読(その137)]

        第11回 かの仏の願に順ずるがゆゑに

(1)本文1

 龍樹、天親、曇鸞、道綽ときまして、次に善導から引用されます。善導には『観経疏』4巻、『往生礼讃』1巻、『観念法門』1巻、『法事讃』2巻、『般舟讃』1巻の5部9巻の著作がありますが、まずは『往生礼讃』からの引文です。

 光明寺の和尚のいはく、「また『文珠般若(正式には文珠師利所説魔訶般若波羅蜜経)』にいふがごとし。一行三昧(もっぱら弥陀の名号を称える三昧)を明かさんと欲(おも)ふ。ただ勧めて、独り空閑(くうげん)に処して、もろもろの乱意を捨てて、心を一仏に係けて相貌(そうみょう)を観ぜず、もつぱら名字を称すれば、すなはち念のなかにおいて、かの阿弥陀仏および一切の仏等を見ることを得といへり。
 問うていはく、なんがゆゑぞ観をなさしめずして、ただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意(こころ)かあるやと。
 答へていはく、いまし衆生障(さわり)重くして、境(対象)は細なり、心は麁(そ、粗雑)なり。識あがり神とびて、観成就しがたきによりてなり。ここをもつて大聖(釈迦)悲憐して、ただちに勧めてもつぱら名字を称せしむ。まさしく称名易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ずと。
 問うていはく、すでにもつぱら一仏を称せしむるに、なんがゆゑぞ境現ずることすなはち多き。これあに邪正あひ交(まじ)はり、一多雑現するにあらずやと。
 答へていはく、仏と仏と斉しく証して、形二の別なし。たとひ一を念じて多を見ること、なんの大道理にか乖かんや。(本文2につづく)

 (現代語訳) 善導和尚はこう言われます。『文珠師利魔訶般若波羅蜜経』に、一行三昧について次のように説かれています。一人静かなところで、心を鎮め、ただ弥陀仏だけを念ずることを勧めます。それも弥陀仏のお姿を観想するのではなく、ひたすらその名号を称えるのです。そうしますと、弥陀仏と他の一切の仏たちを見ることができます。
 お尋ねします、どうして弥陀仏のお姿を観想するのではなく、ただその名号を称えることを勧められるのでしょうか。
 お答えします、衆生にはさまざまな障りがあり、相手は非常に繊細であるにもかかわらず、こころはふわふわと飛び回って、仏のお姿をじっと観想することが難しいからです。釈迦はそうした衆生を哀れみ、ただ名号を称えることを勧められるのです。称名は易しいですから相続することができそのまま往生できるのです。
 お尋ねします、ただ弥陀仏の一仏を称名するだけなのに、どうして多くの仏たちを見ることになるのでしょうか。それは正と邪とがまじる結果、一と多がまじることになっているのではないでしょうか。
 お答えします、仏たちの悟りに違いはありませんから、一仏を念じて多くの仏を見ることになっても、道理に背くことはありません。

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すべて大海に会す [『教行信証』精読(その136)]

(13)すべて大海に会す

 親鸞は『大経』と『観経』について、前者が真実の教であり(「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」)、後者は方便の教と見ました。両者を分けるポイントはいくつかありますが、そのひとつが「往生のとき」です。親鸞のみるところ、『大経』は「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)と説いており、したがって「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(同)です。『観経』が臨終の来迎を説いているのは方便にすぎず、往生は本願に遇えたそのときにはじまるのです(「さだまる」とは「はじまる」ということです)。ここに親鸞浄土教の眼目があると言えます。
 死のかなたに浄土を仰ぎみるのではなく、「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のです。
 さて、「万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず」にもどりますと、生老病死をたどる万川長流の流れ着く先に無量寿仏国があり、仏法を信じることによって、いのち終わったあと、その国に入ることができるのでしょうか。そして仏法を信じない人は、いのち終わったあと、また生死輪廻を繰り返すことになるのでしょうか。もしそうだとしますと、万川長流は「すべて大海に会す」とは言えなくなります。仏法を信じる人と信じない人とで違う海に入ることになります、無量寿仏国という海と、生死輪廻の海と。
 そうではないでしょう、「万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず」、すべて例外なく「ほとけのいのち」という大海に入るのです。それは仏法を信じようが、信じまいが変わりありません。ただ、みなことごとく「ほとけのいのち」の海に入るというこの一点に気づいているかどうか。それに気づきさえすれば、「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」ことになります。生老病死の流れの中にありながら、その心はすでに浄土に遊ぶことができるのです。しかし、気づかなければ、その人は依然として生死輪廻の迷いの中を彷徨うことになります。浄土も穢土も来生ではなく、今生ただいまのことです。

                (第10回 完)

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前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず [『教行信証』精読(その135)]

(12)前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず

 現存の『目連所問経』にこの文はないそうですが、「たとへば万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず、すべて大海に会するがごとく」という表現などは、その光景が目に浮ぶようで、つよく印象に残ります。先に生まれたものは、後に生まれたものの力になることができず、後にうまれたものも、先に生まれたものを助けることができない。一定の距離をおきながら、みな同じように生老病死の大河を流されていくというイメージが鮮明にうかびます。
 さてしかし「ことごとく生老病死をまぬかるることを得ず」としますと、そこにはどんな救いもないように思えますが、浄土の教えは「前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず」に流されていく人にどんなよきメッセージを伝えてくれるのでしょう。この引文では「ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となりて、さらにはなはだ困劇して千仏の国土に生ずることを得ることあたはず」というぐあいに、もっぱらいのち終わったのちのことが語られていて、無量寿国に往生するのも当然いのち終わったのちとされます。今生ではみな「ことごとく生老病死をまぬかるることを得ず」ですが、本願を信じ念仏すれば来生に無量寿国に往生することができるというわけです。
 これまで触れませんでしたが、『安楽集』では往生浄土はいのち終わってのちであることが当然とされています。
 『安楽集』という書物は『観経』をベースとしていますが(ところどころで「いまこの観経は」という言い回しがあらわれ、道綽は『観経』の教えを他のさまざまな経論をもちいて明らかにしようとしていることが分かります)、『観経』では「臨終に弥陀の来迎にあずかり、浄土に往生する」と説かれていて、往生するのはいのち終わってのちであることが前提となっています。一方『大経』はといいますと、往生は来生であるように読めるところもありますが、たとえば第18願成就文のように、信心のそのとき往生するとも書いてあり(即得往生)、文面上はどちらともとれます。

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本文5 [『教行信証』精読(その134)]

(11)本文5

 『安楽集』からの最後の引文です。本文3と4は下巻からでしたが、この文は上巻に戻り、その末尾にあります。

 またいはく、「また『目連所問経』のごとし。仏、目連に告げたまはく、たとへば万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死をまぬかるることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となりて、さらにはなはだ困劇(こんぎゃく)して千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説かく、無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道につかふ。われこの人を説きて、眼(まなこ)なき人と名づく、耳なき人と名づくと。経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらんと。以上

 (現代語訳) 『目連所問経』にはこう説かれています。仏は目連に次のように告げられました。たとえば数多くの大河に草木がうかんで、前をゆくものは後をかえりみることなく、また後ろをゆくものも前をかえりみることもありません。そうしてついには大海に入っていきますが、世間もまた同じようなものです。たとえ位が高く栄えて何不自由のない生活をしようと、みな生老病死から免れることはできません。仏の教えを信じることがありませんと、後に人間に生まれることができたとしましても、激しい苦しみにせめられることとなり、多くの仏のおわす国に生まれることはできません。ですから私はいうのです、無量寿仏の浄土は往き易く、入りやすいのに、人は修行してそこに往かず、かえって九十五種の邪道に仕えることになります。そのような人を「眼なきひと」、「耳なきひと」と言わざるをえません、と。このように経典は説いているのに、どうして難行道をすてて易行道につかないのでしょうか。

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大千世界に満てらん火をも [『教行信証』精読(その133)]

(10)大千世界に満てらん火をも

 たった一回の念仏でどうして往生できるのかという問いは、われらが南無阿弥陀仏を称えることだけに目を奪われていますと、うまく答えることができません。念仏とは、われらが南無阿弥陀仏を称えることだけでなく、それに先立って南無阿弥陀仏の声がわれらに届けられることであり、そのふたつが合わさったものが念仏であるということ、この前提に立ってはじめて十全に答えることができます。われらが南無阿弥陀仏を称えるという点ではまぎれもなく自力ですが、それに先立って南無阿弥陀仏の声がわれらに届けられるという点では他力です。念仏は自力にして同時に他力であるということ、これをもとにしてはじめて、たった一回の念仏が往生の因となるという謎が解けます。
 むこうから南無阿弥陀仏の声がして(これが第17願の「諸仏称名」で、諸仏の南無阿弥陀仏の声がわれらに聞こえてくるのです)、その声がわれらの身に染みとおり、おのずから南無阿弥陀仏の声が口から漏れ出ます(これが第18願の「至心信楽、欲生我国、乃至十念」です)。そのときが正定聚不退となるときであり、往生がさだまるときです(これが第11願の「住正定聚」であり、また第18願成就文の「即得往生」です)。たった一回の念仏で往生できるというのはこのことです。
 ここから「たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし」という曇鸞の偈文がよく了解できます。この文は『大経』の末尾に「たとひ大火ありて、三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し」とあるのがもとになっています。曇鸞の偈文は「聞くべし」と終わっていますが、これを文字通り「聞かなければならない」と受け取るべきではないでしょう。弥陀の名号は、「聞かなければなりません」と命じられて、「はい、分かりました」としたがうことができるようなものではないからです。
 この偈は「大千世界に満てらん火をも」はねのけて、なんとしても聞かなければなりません、と言っているのではありません。「大千世界に満てらん火」の中であっても、かならず弥陀の名号を聞くことができる、と言っているのです。そして、それを聞くことができさえすれば、「大千世界に満てらん火」の中にあっても、もう「退せず」に生きていくことができると言っているのです。

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念仏とは [『教行信証』精読(その132)]

(9)念仏とは

 たった一回念仏するだけでどうして往生することができるのか、という根本的な疑問に答えるには、「たった一回の念仏」にのみ眼を向けているだけでは到底おぼつきません。「たった一回の念仏」をどれほどこねくり回しても、そこから往生という結論は出てきません。ことは「念仏とは何か」という浄土教の原点に関わります。念仏とは弥陀の名号である南無阿弥陀仏を称えることである―これには一点の疑いもありません(念仏の原義は、仏を心に憶念することでしょうが、いまは称名念仏として話を進めたいと思います)。ただ、そこにとどまっていますと、それがどうして往生につながるのかという通路が一向に見えてこないのです。
 念仏とは「名号を称える」ことに間違いありません。しかし実はそれに先立って「名号を聞く」ことがあります。「名号を聞く」から「名号を称える」ということ、ここに念仏往生のアポリアを解く鍵があるのです。
 ぼくはずっと長い間、念仏とは南無阿弥陀仏と口に称えることとしか思っていませんでした。そしてそう思っていた間は、なかなか念仏ができませんでした。念仏しようとしても、それを押しとどめようとする力がはたらいて、南無阿弥陀仏がうまく口から出てくれないのです。どうしてかといいますと、こころのどこかで念仏は呪文のようなものという思いがあり、呪文のようなものを理性が押しとどめるのです。念仏するのは恥ずかしいという感覚から逃れられませんでした。
 しかしあるとき念仏とは口に称えるより前に、耳に聞こえてくるものだということに思い至ったのです。どこかから南無阿弥陀仏の声が届き、それに応えて南無阿弥陀仏と称えるのだと。称名には聞名が先立つのです。「帰っておいで」という声が聞こえて(聞名)、それに「はい、ただいま」と応答する(称名)、これが念仏です。そう気づいてからは、念仏が自然にできるようになりました。念仏はぼくがするには違いありませんが(その意味で自力ですが)、でもそれはぼくの意向ではなく、むこうから「帰っておいで」と呼びかけられてくるから、それに「はい、ただいま」と応えているだけです(その意味では他力です)。

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