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畢竟成仏の道路にて [『教行信証』精読(その153)]

(17)畢竟成仏の道路にて

 先ほど言いましように、正定聚とは「往生が正しくさだまったもの」と理解されることが多いのですが、正確には「仏となることが正しくさだまったもの」という意味です。往生と成仏をひとつとしてしまいますと、正定聚は「往生すなわち成仏がさだまったもの」となりますが、はたして往生と成仏は同じでしょうか。往生即成仏とするのが浄土真宗の通説かもしれませんが、曽我量深氏の言われるように、往生と成仏は別とする方が親鸞の考えに沿うと思います。
 たとえば親鸞は『高僧和讃』において曇鸞『論註』の文をもとにこう詠っています、「安楽仏国に生ずるは 畢竟成仏の道路にて 無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり」。「安楽国に生まれるは、ついに仏になるための、この上のない手立てとて、諸仏浄土をすすめたり」ということですが、この(往生は)「畢竟成仏の道路にて」ということばを手がかりに往生と成仏の関係を考えてみましょう。まず目を引きますのが「道路」という文字です。往生は道路であるということ、これは示唆に富みます。
 ぼくらはともすると往生をある時の一点としてとらえてしまいます。これは往生の「生」という文字がもたらす感覚でしょう。この世に生まれてきたのがある一点であるように、浄土に生まれるのもある一点であるととらえるのです。しかし曇鸞は、そして曇鸞と一体の親鸞は、往生を長い道のりであると言います。そしてこの道のりは「畢竟」するところ、つまり、最終的に行きつく先は成仏であると言うのです。長い道のりを旅してゆき、最後には成仏という終着点に至る、これが往生であると。
 このように見ますと、往生とは成仏という終着点をめざす旅であり、正定聚とは往生の旅人であるということになりますが、さてこの旅はいつはじまるのか。親鸞はこう言っています、「信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(『末燈鈔』第1通)と。「信心のさだまるとき」とは「信心のはじまるとき」に他なりませんから、「往生さだまる」も「往生はじまる」と読み替えるべきです。したがって信心のはじまるとき、つまり本願に遇うことができたそのとき、往生の旅ははじまるということになります。「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」です。

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
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