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回向ということ [親鸞最晩年の和讃を読む(その21)]

(5)回向ということ

 願作仏心と度衆生心はわれらの願いである前に、生きとし生けるものみなにかけられている願いであると言ってきました。法蔵菩薩の誓願とはそれを「しらせんれう」であって、言ってみれば、その願いは世界の願いでしょう。その世界の願いにおいては、個々の己が仏にならんと願う願作仏心と、よろづの有情を仏になさんと願う度衆生心との間に何の差もありません。「願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり」とはそういうことです。
 つづく二首の和讃でこう詠われます。

 度衆生心といふことは
  弥陀智願の回向なり
  回向の信楽1うるひとは
  大般涅槃をさとる2なり(21)

 注1 左訓に「弥陀の願力をふたごころなく信ずるをいふなり」とある。
 注2 同じく左訓に「弥陀如来とひとしくさとりを得るをまうすなり」とある。

 如来の回向1に帰入して
  願作仏心2をうるひとは
  自力の回向をすてはてて
  利益有情はきはもなし(22)

 注1 左訓に「弥陀の本願をわれらに与へたまひたるを回向とまうすなり」とある。
 注2 同じく左訓に「浄土の大菩提心なり」とある。

 この二首で度衆生心も願作仏心も「弥陀智願の回向」「如来の回向」であって、自力の回向ではないと詠われます。ここで回向ということばが繰り返し出てきますが、その原義は己の行う善きことを他に回らし向けるということです。いちばん分かりやすいのが追善回向で、死者のためにさまざまな善事(読経や供養)をなすことです。そのようにさまざまな善きことをして、それを自分の救いのためや、他の人たちの救いのためにさし向ける(手向ける)ことを指しますから、その主体はもともとわれらであるのは当然です。ところがここでは「弥陀智願の回向」「如来の回向」と言われる、そこに光を当てたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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