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自力の相と他力の相 [親鸞最晩年の和讃を読む(その32)]

(6)自力の相と他力の相

 自分が自力の相(われらが立ちあげているこの我執の世界です)から他力の相(本願力回向の世界)に入るためには、自力を遮断しなければなりませんが、それはできる相談ではありません。自力を遮断するのも自力ですから、自力で自力を遮断するのは、自分で自分の影を消そうとするようなもので、どだい不可能です。では他力の相はわれらには縁がないということでしょうか。われらは永遠の真理とは縁なき衆生でしょうか。とんでもありません。われらが自力の相から他力の相に入ることはどうあってもできませんが、他力の相の方が自力の相にふいっと姿を現すのです。
 そのときわれらは他力の相を目の当たりにしますが、「わがもの」に囚われていることに気づくと言ってきましたのは、そのことです。われらはそれと気づくことなく「わがもの」に囚われています(「囚われている」とは取りも直さず「気づいていない」ということです)が、あるとき突然、不思議な光に照らされ、「わがもの」に囚われている事実が明るみに出されます。他力の相が自力の相のなかにふいっと姿を現すというのはこのことに他なりません。永遠が時間の相を断ち切って突然あらわれるのです。
 時間の相のなかにあるわれらが永遠の相に入っていく道はありませんが、永遠の相の方が時間の相のなかに一瞬あらわれることはあるということです。
 以上のことから出てくるのは、われらは永遠の相の下で語ることはできないということです。われらが永遠の相に入ることができるのでしたら、そこから「弥陀は」と語ることができるでしょうが、永遠の相がふいっとあらわれる瞬間に立ち会うことしかできないのですから、その「いま、ここ」から、「わたしは」不思議な経験をしましたとしか語ることができません。「わたし親鸞は」と語る親鸞のことばに魅力を感じるように、清沢満之の文に引きつけられるのも同じ事情です。彼もまた「弥陀は」とか「如来は」と言わず、「われは」と言います。たとえば「他力の救済」。
 「我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉ず」。

タグ:親鸞を読む
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