SSブログ

自信教人信 [親鸞最晩年の和讃を読む(その57)]

(4)自信教人信

 また善導の「自信教人信(みづから信じ、人を教えて信ぜしむ)」ということばを持ち出しますと、「みづから信じ」が往相回向で、「人を教えて信ぜしむ」が還相回向です。これを普通に読みますと、まず自信という因があり、しかる後に教人信という果があるかのようです。そこには一方的な時間の流れがあるように思えます。そしてこの因果の感覚には、何をおいてもまず「みづから信じ」なければならない、そうしてはじめて「人を教えて信ぜしむ」ることができるという思いがはたらいています。つまり因果には「ねばならない」が隠れているということです。
 まず自信があり、しかる後に教人信があると読むとき、弥陀の回向(賜物)であるはずの信心が、「ねばならない」信心にすり替わっているのです。
 しかし自信と教人信とは因果の関係ではなく、縁起の関係にあります。つまり一方向の継起ではなく、双方向の繋がりです。自信があって教人信があるのではなく、自信がそのまま教人信であり、教人信がそのまま自信です。自信とは「わたし」が信じるのではなく、「わたし」において信(本願の気づき)が起るということであり、教人信もまた「他の人」を信じさせるのではなく、「他の人」において信(本願の気づき)が起るということです。自信とは「わたし」が信を賜るということであり、教人信とは「他の人」が信を賜るということです。そしてそのふたつが、どういうわけかひとつに繋がっているということ、これが「自信教人信」です。
 『歎異抄』の後序に記されたあのエピソードが蘇ります。まだ承元の法難という嵐がくる前の吉水で、親鸞が兄弟子たちに「わたしの信心と法然上人の信心はひとつです」と言ったというあの話です。議論に決着がつかないので法然上人の裁断を仰いだところ、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房(親鸞です)の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり」という稲光のようなことばが返ってきたのでした。そのときの光景が目の前に浮ぶようです。
 「自信」の信も「教人信」の信も、どちらも「如来よりたまはりたる信心なり、さればただ一つなり」と言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問