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罪福ふかく信ぜしめ [親鸞最晩年の和讃を読む(その74)]

             第9回 仏智と人知

(1)罪福ふかく信ぜしめ

 誡疑讃(かいぎさん)がつづきます。

 如来の諸智を疑惑して
  信ぜずながらなほもまた
  罪福ふかく信ぜしめ
  善本修習(ぜんぽんしゅじゅう)すぐれたり(70)

 注 善を修めて往生しようという思いが膨れ上がるということ。

 仏智不思議に気づきませんと(これが仏智を信じないということです)、人知にたよるしかありませんが、それが「罪福ふかく信」じることです。何が善であり、何が悪であるかを己の力で明らかにし、善をなし悪を避けようとすること。『歎異抄』後序に「まことに如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまうしあへり」とありますが、「如来の御恩といふことをばさたなくして」とは「如来の諸智を疑惑して」ということであり、「よしあしといふことをのみまうしあ」うことが「罪福ふかく信」じることに他なりません。
 しかし親鸞はこう言うのです、「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」と。われもひとも、ことあるごとに「よしあし」と言いあっているが、みな「そらごと、たわごと」だと言うのです。さてこれは、人知は「みなもてそらごと、たわごと」だから、そんなものはかなぐり捨てて、仏智にすべてを委ねて生きるのがいいということでしょうか。
 仏智と人知はどういう関係にあるのか、あらためて考えてみたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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