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臨終まつことなし [『教行信証』精読2(その45)]

(13)臨終まつことなし

 臨終に「苦に逼られて」正念を失うのではないかという不安に二種類あることが分かります。ひとつは「まだ死にとうないのに、死ななければならない」という苦しみに耐えられないのではないかという不安で、これは分かりやすい。もうひとつは臨終に苦に逼られ正念を失って念仏できなくなると、肝心の往生ができなくなってしまうという不安で、これは伝統的な浄土教特有のものです。前者は臨終に正念を失うことそのものに対する不安ですが、後者は正念を失うことで往生にさしつかえるのではという不安です。
 さて、弥陀の本願に遇うことができ、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることに気づかせてもらえたとき、この二種類の不安はどうなるでしょう。元照のことばでは「さきに仏を誦してつみ滅し、さはりのぞこり、浄業うちに薫じ、慈光ほかに摂して」いるとき、これらの不安はなくなるのでしょうか。まず臨終に「死にたくない」という思いで正気を失ってしまうのではないかという不安ですが、「そんなものはすっきりなくなる」と言っていいのでしょうか。
良寛なら「死ぬる時節には死ぬがよく候ふ」と言うのでしょうが、親鸞は少し違うような気がします。「いささか所労(病気)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」(『歎異抄』第9章)と言う人ですから、いよいよ死が迫ったときにも「まだ死にとうない」という気持ちは残るのではないでしょうか。しかし「なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはる」ことになると言います。これが人間の自然な姿であるように思えます。
 問題は臨終に正念を失えば往生にさしつかえるのではないかという不安です。「まだ死にとうない」などと生に執着しているようでは往生できないのでしょうか。この不安のもとには往生浄土はいのち終わってのちという前提があります。だからこそ今生と来生の接点である臨終のありようが一大関心事となるのですが、親鸞はその前提をとりません。「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(『末燈鈔』第1通)です。もう摂取不捨されているのですから(もう往生は始まっているのですから)、いまさら来生の往生を心配することはありません。

タグ:親鸞を読む
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