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本願に遇えた慶びを嘆ずる [『教行信証』精読2(その138)]

(12)本願に遇えた慶びを嘆ずる

 本願に遇ったことのない人は、どれほど丁寧に本願のはたらきを説明されても、その素晴らしさを実感することはできないでしょう。
 本願はどういうものかを思い浮かべようとして思い浮かべることができるものではありません。何度も繰り返し言いますように、本願はふとそれに気づいてはじめてそこにあるものであり、気づきませんと、どこにも存在しません。まだ見たことはないが、どこかに存在するものについては、それについて「なほしかくのごとし」と丁寧に譬えてもらうことで、おぼろげながらもそれについての像を結ぶことができるでしょうが、それに気づいておらず、いや、気づいていないとも思っていないことについて、どれほど譬えを連ねられても、「われ関せず焉」でしかありません。
 さてしかし、そうとしますと、ここで親鸞が本願についての譬えを延々と連ねていることにどんな意味があるのでしょうか。
 答えはただひとつ、本願を讃嘆するということ、これです。親鸞は本願をさまざまに譬えることで、本願にまだ気づいていない人に対して、それが何であるかを伝えられると思っているわけではないでしょう。そうではなく、自分が本願に気づくことができたことを喜び、それがどれほど素晴らしい経験であるかを語っているだけです。序にこうありました、「ここに愚禿釈の親鸞、…あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり。…ここをもてきくところをよろこび、うるところを嘆ずるなり」と。ここに教行信証という書物の性格がはっきり語られています。
 さて、親鸞は本願に遇えたことを慶び、それを讃嘆しているだけとしても、だからと言って、この書物が親鸞ひとりに閉じられているわけではありません。すでに本願に遇えた人は親鸞のことばに共感し、ともに慶ぶことができるのは言うまでもありませんし、まだ本願に遇えていない人も、なるほど親鸞のことばによって本願に遇えるわけではありませんが、何か未知のすばらしい世界があるらしいことを感じさせてもらうことはできます。思えば高校生のぼくが歎異抄をはじめて読んだとき、これは一体何だろう、ここにはぼくの知らない深い世界があるぞと思ったのもそれでした。そのとき本願に遇えたわけではありません。でも本願という未知の世界があることは感じさせてもらったのです。

タグ:親鸞を読む
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