SSブログ

本文1 [『教行信証』精読2(その191)]

    第12回 われまたかの摂取のなかにあれども―正信偈(その4)

(1)本文1

 依釈段の龍樹讃、天親讃、曇鸞讃ときまして、次は道綽讃です。

 道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことをあかす。万善の自力、勤修(ごんしゅ)を貶す。円満の徳号、専称をすすむ。(道綽決聖道難証、唯明浄土可通入、万善自力貶勤修、円満徳号勧専称)

 (現代語訳) 道綽禅師は聖道により証を得ることは難しいと決し、ただ浄土門だけが通入できることを明らかにしました。自力による万善諸行の勤修を貶め、功徳に満ちた名号を称えることを専ら勧められました。

 道綽は涅槃経に拠る涅槃宗(のちに衰退し消滅します)の人でしたが、48歳のとき玄中寺を訪れた際、曇鸞を讃える石碑と出会い、それを機に浄土教に帰すことになります。彼自身が仏道修行を進めるなかで「聖道の証しがたきこと」を身に沁みて感じ、「ただ浄土の通入すべきこと」を痛感したに違いありません。だからこそ安楽集を著して、「万善の自力、勤修を貶」し、「円満の徳号、専称を勧」めたのでしょう。さてしかしどうして聖道は証しがたいのか。
 道綽が拠りどころにしようとした涅槃経の眼目が「一切衆生悉有仏性」にあることは衆目の一致するところですが、これは平たく言いますと「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるということです。煩悩熾盛の衆生一人ひとりの「わたしのいのち」に仏性すなわち「ほとけのいのち」が宿っていて、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」は別ものではないということですが、これをどのようにして証することができるのか。
 ひとりの例外もなくみな「ほとけのいのち」を宿していることを如何にして納得しうるかということです。そこで「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」は別ものではないことを証明することとして、そのためには何をしなければならないかを考えてみましょう。まずは「わたしのいのち」とは何かを明らかにしなければならないでしょう。そして次に「ほとけのいのち」とは何かをはっきりさせる必要があります。そうしてはじめて両者がひとつであることを証明できるでしょう。
 さてここにとんでもないアポリアがあります。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

わがうちなる法蔵菩薩 [『教行信証』精読2(その190)]

(21)わがうちなる法蔵菩薩

 さて最後の「かならず無量光明土にいたれば、諸有の衆生みなあまねく化す」ということ、すなわち還相回向です。天親讃のところで往相がそのまま還相であることを見ましたが、もう一度そこに立ち返りたいと思います。
 「かならず無量光明土にいたれば」が往相で、「諸有の衆生みなあまねく化す」が還相ですが、この言い回しからは、まず往相、そののちに還相と受けとめるのが自然かもしれません。それは「いたれば」を「いたるならば」という仮定を意味するものと理解するからだと思われます。しかし文語表現としては、「いたれば」は「いたるならば」という仮定ではなく、「もういたっているので」という確定を意味します(仮定を表そうとしますと「いたらば」となります)。としますと、まず往相があり、しかるのちに還相がくるということではなく、往相があるところにはすでに還相があるということ、つまり、往相と還相は同時ということになります。
 往相とは信心をえて正定聚となることです。すなわち本願力のはたらきをわが身に感じて、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」を生きていることに気づくことです。それは、別の言い方をすれば、法蔵がわがうちにいることに気づくことであり、法蔵の誓願をわが誓願と感じることに他なりません。「若不生者、不取正覚(生まれずば、正覚をとらじ)」という誓いをわが誓いと感じることです。歎異抄のことばでいえば、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり」と思うことです。
 正信偈では「みなあまねく化す」といい、歎異抄では「たすけさふらふ」といいますが、わが力で「化す」のでも「たすける」のでもないのは言うまでもありません、みな本願力のはたらきで救われるのです。ただ「ほとけのいのち」を生きていることに気づきますと、そうした本願力のはたらきのなかに自分も入らせてもらい、救われつつも同時に救うはたらきの一翼を担わせてもらうことになると思えるのです。「かならず無量光明土にいたれば、諸有の衆生みなあまねく化す」とはそういう意味に違いありません。

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

生死すなはち涅槃なり [『教行信証』精読2(その189)]

(20)生死すなはち涅槃なり

 「信は願より生ず」とすると、信のある人とない人がいるのはどういうわけか、という問いですが、答えはひとつしかありません。願より生ずる信をブロックしているか、していないかということです。ブロックしている人には信がなく、していない人には信がある。としますと、信心とは本願力に何かを加えることではなく、本願力の感受を妨げているブロックが取り去られることと言えそうです。信心とはプラスであるよりはむしろマイナスであるということです。信心といいますと、何かをしっかりつかんでいるというイメージですが、むしろこれまで握りしめていたものを何かの拍子に手放すことのようです。
 さて後生大事に握りしめていたものを手放したとき、何が起こるか。それが次の「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」です。
 存覚(本願寺3代・覚如の長男)は『六要鈔』(『教行信証』の注釈書)においてみずから問いを立てています、生死即涅槃という深悟の機だけが近づけるようなことを、信心をおこしたとはいえ惑染の凡夫がどうして証知することができるのだろうか、と。ここからは、生死即涅槃とか煩悩即菩提というのは大乗仏教の奥義であり、そんじょそこらの凡夫が関わり知ることができるようなことではないという感覚があったことが窺われます。そして存覚はそれにこう答えます、信心というのは自力の心でおこすものではなく、他力によるのであるから、惑染の凡夫といえどもこの真理に与ることができるのだと。
 これをぼく流に咀嚼しますと、生死即涅槃という真理にこちらから近づこうとしてもかなうものではないが、こちらから真理に近づかなければならないという思いを手放したときに、思いがけずむこうから近づいてくるものだということです。「生死すなはち涅槃なりを証知する」とは、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であると気づくことですが、「ほとけのいのち」を向こうに見て、こちらからどれだけ近づこうとしても、自分の影を踏もうとするときのように、近づいたと思われるだけ遠のいてしまいます。ところが、こちらから近づこうという思いを手放したとき、思いもかけずむこうから近づいてきて、気づいたときにはもう「ほとけのいのち」を生きている。これが「生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」ということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

ただ信心 [『教行信証』精読2(その188)]

(19)ただ信心

 しつこいようですが、もういちど往生とは何かを確認しますと、「いま、ここにはたらいている本願力をわが身に感じている」ことです。本願力に生かされていると感じていることです。としますと、本願力がなければ往生がないのはもちろんですが、でもそれをわが身に感じなければまた往生はありません。そしてそれを感じることが信心に他なりませんから、その意味では本願力プラス信心イコール往生であると言えます。本願力はいつでもどこでもだれにでもはたらいているのですが、でもそれを感じませんと(これまでは「気づかないと」と言ってきましたが、同じことです)、本願力はどこにもなく、したがって往生もまたありません。
 さてしかし本願力のはたらきに信心をプラスすると言っても、それをわれらがするのではありません。そんなことをしようとしてもできるものではありません。
 信心とは本願力のはたらきを感じることだと言いましたが、どんなことであれ、それが感じることである場合、われらが感じようとして感じられるものでしょうか。たとえば暑いという感覚を考えますと、どんなに暑くても涼しい顔をしている人がいるとしましょう。その人に「こんなに暑いのに暑さを感じないのはおかしいよ」と言ってみても、その人が暑さを感じないのは何ともなりません。その人が「そうか、今日は暑いのだから、暑さを感じるようにしよう」と思っても、そのように感じられるわけではないでしょう。
 感じることはわれらの意のままにはならないのです。
 何かを感じるとき、その感覚はわれらにおいて起こっていますが、でも、われらが起こしているのではなく、その何かが起こしているのですから、われらの意のままにはなりません。本願力のはたらきを感じるということも、本願力のはたらきそのものが起こしているのであり、われらが起こしているわけではありません。親鸞が「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり」(高僧和讃、善導讃)と言うように、信心、すなわち本願力の感受は、本願力そのものから生じるのであって、われらが本願力に加えているのではないのです。
 さてしかし、本願力はいつでもどこでもだれにでもはたらいているのに、それを感受する人(信じる人)としない人(信じない人)がいるというのはどういうわけでしょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文7 [『教行信証』精読2(その187)]

(18)本文7

 曇鸞を讃える偈文の後半です。

 往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。かならず無量光明土にいたれば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。(往還回向由他力、正定之因唯信心、惑染凡夫信心発、証知生死即涅槃、必至無量光明土、諸有衆生皆普化)

 (現代語訳) 浄土へ往く往相回向も浄土から還る還相回向も本願他力によります。それに与ることができるのはただ信心によってのみです。どんなに煩悩のなかにある凡夫も、信心さえ起これば、そのとき生死の迷いがそのままで涅槃であることに気づかせてもらえます。かくして浄土にいたることができますと、あらゆる衆生を済度するという仕事に参加させてもらえるのです、と曇鸞大師は言われます。

 ここには短いことばでたくさんのことが述べられています。一句一句かみ砕いていきましょう。
 先には「報土の因果、誓願にあらはす」とありましたが、それがここでは「往還の回向は他力による」と詠われます。まったく同じことを違う言い回しでいっているだけです。先には浄土についていわれ、いまは往生(そして還相回向もですが、これについては後であらためて考えます)についていわれているのです、いずれも本願力によると。すぐ前に言ったことですが、往生とは「いま、ここにはたらいている本願力をわが身に感じている」ことです。本願力に生かされて生きていると感じていること、これが浄土へ往くこと、すなわち往生に他なりません。
 次に「正定の因はただ信心なり」とあります。何の因かと言えば、もちろん往生の因です。往生は本願力によるが、その因は信心であるということで、何か往生の因が二つあるような感じです。これは、本願力によって往生させてもらえるのだが、ただ、そこにわれらの信心がなければ本願力もはたらきようがないという意味でしょうか。つまり、本願力だけでは往生できず、そこに信心が加えられなければならないと。本願力プラス信心イコール往生という等式でいいのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

浄土とは [『教行信証』精読2(その186)]

(17)浄土とは

 浄土論には安楽国土と、そこにおわす阿弥陀仏および菩薩たちの姿が29の荘厳として描かれていますが(国土が17荘厳、阿弥陀仏が8荘厳、菩薩が4荘厳)、国土荘厳のひとつに「梵声(ぼんしょう)、悟らしむること深遠(じんのん)、微妙(みみょう)にして十方に聞こゆ(清らかな声は、人々を深く悟らしめ、あらゆるところに響き渡る)」とあります。安楽国土には清らかな声が響いていて、それを聞くものたちに深い悟りをあたえるということですが、これを曇鸞は注釈してこう言います、「これいかんぞ不思議なるや。経にのたまはく、もしひとただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る(親鸞の証巻の読みでは、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生をうるものとは、すなはち正定聚にいる)。これはこれ国土の名字、仏事をなす、いづくんぞ思議すべきや」と。
 ここで「経にのたまはく」とありますのは、おそらく無量寿経の往覲偈のなかの「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲はば、みな、ことごとくかの国に到り、おのずから不退転に致らん」を指すと思われますが、曇鸞は浄土に聞こえる梵声を仏の名号の声ととらえ、これを聞くことができれば、本願力によりただちに正定聚不退に入ることができると理解しているのです。浄土の梵声というものを、こことは別のどこかに清らかな声が鳴り響いているところがあり、それが浄土という世界であるとするのではなく、「いまここ」で清らかな声がするというはたらき(本願力)を浄土ということばであらわしていると理解するのです。そのはたらきは「いまここ」においてあり、われらに直に届いているのです。「国土の名字、仏事(仏としてのはたらき)をなす」というのはそういうことです。
 浄土を「いまここ」とは別のどこかにある世界とすることなく、「いまここ」にはたらく本願力を場所として表していると理解することで、往生のイメージも一新されます。浄土が「こことは別のどこか」だとしますと、往生は「ここではないどこかへ往く」こととなり、それはおのずから「いのち終わってのち」のことになります。しかし浄土とは本願力の「いまここ」でのはたらきを場所として表したものであるとしますと、往生とは「いまここにはたらく本願力をわが身に感じる」ことであり、それが起こるのは信心をえたそのときにほかなりません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

報土の因果、誓願にあらはす [『教行信証』精読2(その185)]

(16)報土の因果、誓願にあらはす

 さてしかし「報土の因果、誓願にあらはす」とはどういうことか。報土の因が誓願であるというのはよく分かります。法蔵菩薩の誓願が成就して安楽浄土が建立されたということであり(そこから報土といわれるのです)、そこに一点の曖昧さもありませんが、分からないのが報土の果もまた誓願であるということです。これは、ただ「報土の因は誓願にあり」と言えばいいところを、ことばの綾でというか、あるいは文字数を整えるためにか、「報土の因果が誓願にあり」と言っただけのことでしょうか。そう受け取りたくなりますが、でもそれだけではないような気もしてきます。ここに果という一文字を加えたくなった何かがあるのではないかと。
 問題は「浄土とは何か」です。浄土論に描かれている、そしてその大もとである無量寿経に描かれている浄土のきらびやかな姿(荘厳)はいったい何か。龍樹の「空」を学んだ曇鸞としては、それを「こことは別のどこか」に建てられた極楽世界のことと理解することは到底できないでしょう。空の思想は、ここに一つの世界が実体としてあること自体を否定するのですから、ましてやそれとは別にもう一つの世界がどこかに実体として存在することを認めるはずがありません。とすると浄土とは何なのか。それが法蔵菩薩の誓願にもとづいて建てられたのはもちろんですが、しかしそれは誓願を離れてどこかに存在するのではなく、誓願のはたらきそのものが浄土ではないでしょうか。
 浄土の因だけではなく果も誓願であるというのは、それを言おうとしているのではないかと考えられます。すなわち、浄土は誓願を因として建てられましたが、だからといって誓願を離れてどこかにつくられたのではなく、ここ、この娑婆のただなかに誓願のはたらきとしてあるということ、これが浄土の果も誓願であるということばの真意ではないでしょうか。浄土ということばは、それを一つの国土、世界としてイメージさせますが、それに囚われることなく、誓願のはたらきをあらわしていると理解するのです。誓願のはたらきを、それがはたらいている場所として表現するもの、それが浄土であると。こう理解しますと、浄土はこの娑婆とは別のどこかにあるのではなく、この娑婆のただなかにあると了解できます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文6 [『教行信証』精読2(その184)]

(15)本文6

 三人目の「よきひと」は曇鸞です。

 本師曇鸞は、梁の天子、常に鸞のところにむかふて菩薩と礼(らい)したてまつる。三蔵流支1(さんぞうるし)、浄教をさづけしかば、仙経2を梵焼して楽邦に帰したまひき。天親菩薩の論、註解(ちゅうげ)して、報土の因果、誓願にあらはす。(本師曇鸞梁天子、常向鸞処菩薩礼、三蔵流支授浄教、梵焼仙経帰楽邦、天親菩薩論註解、報土因果顕誓願)
 注1 菩提流支三蔵。三蔵とは経・律・論のことで、それに精通している人も指す。
 注2 道教の経典。

 (現代語訳) さて本師曇鸞ですが、南朝の梁の武帝はいつも曇鸞の方に向かい菩薩の礼をとられていました。そして菩提流支から観無量寿経を授けられて、折角手に入れた道教の経典を焼き捨て、浄土の教えに帰されました。また天親菩薩の浄土論を注釈して、浄土の因も果もみな誓願によることを明らかにしてくださいました。

 ここでは曇鸞についての三つの事績が述べられています。一つは南朝の天子からも尊崇されるほど、多くの人たちから慕われていたこと、二つは長寿を願ってわざわざ江南を訪ね、道教の経典を手に入れたのに、インドからやってきた菩提流支に観無量寿経を教えられ、たちまち浄土の教えに帰したこと、そして三つ目は浄土論を注釈して浄土論註をあらわし、浄土が建立された因は誓願によること、またその果としての浄土そのものも誓願に他ならないことを明らかにしたということです。
 第一と第二も興味深く、引きつけられますが、しかしまあ所詮エピソードにすぎないのに対して、第三が親鸞にとっても、そしてわれらにとっても本質的なことと言わなければなりません。浄土論といい、浄土論註といい、「浄土とは何か」を明らかにしようとするものですが、曇鸞にとって浄土論に描かれた浄土のありよう(荘厳)が真に意味することを読み取ることが大事な課題でした。龍樹に学んだ曇鸞には、浄土を「こことは別のどこか」と理解することは到底できるものではありませんが、ではいったい浄土とは何か。親鸞はそれを短く「報土の因果、誓願にあらはす」と述べています。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

往相と還相 [『教行信証』精読2(その183)]

(14)往相と還相

 功徳大宝海に帰入するそのとき(「念仏まうさんとおもひたつ」そのとき)が往生のときであることはもはや明らかでしょう。ただ、それは往生がはじまるときであり、そのときから往生の生活がずっとつづくことになるのです。往生といいますと「上がり」というイメージをもたれがちですが、それは終わりではなくはじまりです。「前念命終、後念即生」という善導のことばがありますが、本願力に遇うことができたとき、それまでの古いいのちが終わり、そこから往生という新しいいのちがはじまるのです。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生きはじめるのです。
 このように見ることで五功徳門の最後、園林遊戯地門にも新しい光が当たってきます。往生はいのち終わってからとされますと、「煩悩の林にあそんで神通を現じ、生死のそのにいりて応化をしめす」のも当然それからということになりますが、信心のときに往生の生活がはじまるとしますと、その生活がそのまま「煩悩の林にあそんで神通を現じ、生死のそのにいりて応化をしめす」ものとなります。往相と還相も継時的ではなく同時的であるということです。
 往相が自利で還相が利他であることは言うまでもありませんが、としますと、まず往相、しかる後に還相というように両者を時間的に切り離すことはできません。自利はそのまま利他であり、利他がそのまま自利であることは、他ならぬ法蔵の誓願そのものが何よりも雄弁に語っています。「もし生まれずば正覚をとらじ(若不生者、不取正覚)」(第18願)とは、一切衆生が救われなければ、自分の救いもないということであり、自利と利他がひとつであることの何よりの証言です。信心とともにはじまる往生の生活がみずからが救われていく往相であるとすれば、それはそのままみんなが救われていく還相でなければなりません。
 正定聚としての生活は、因位の菩薩としての生活に他ならず、因位の法蔵と変わらないということです。正定聚としてのわれらは法蔵の誓願をわが誓願として生きるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

継時ではなく同時 [『教行信証』精読2(その182)]

(13)継時ではなく同時

 そもそも礼拝・讃歎・作願・観察・回向という五つの行は、まず礼拝、次いで讃嘆というように時間的に継起するものでしょうか。そうではなく、礼拝のあるところ、すでに讃歎・作願・観察・回向があるものでしょう。礼拝だけがあって、そこに讃歎・作願・観察・回向がないとしますと、それは単なるかたちだけの礼拝だと言わなければなりません。五行のそれぞれについて同じことが言えるはずで、五行は互いにつながりあっているものであり、時間的に切り離されてはいないでしょう。としますと、近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門の五つの功徳も互いにつながっていて、時間的に継起するものとは考えられません。
 正信偈の文も、よく見ますと、みなひとつにつながっていることを言い表そうとしていることが分かります。「功徳大宝海に帰入すれば」の「ば」は「もし帰入したならば」という仮定条件をあらわすのではなく、「もう帰入しているので」という確定条件をあらわしていますし、「蓮華蔵世界にいたることをうれば」の「ば」も同様で、「いたることができたら」ではなく、「すでにいたることができているので」ということです(仮定か確定かは、「ば」が動詞の未然形に接続しているか、已然形に接続しているかで見分けられます)。
 親鸞は諸行(聖道門)は漸であるのに対して、念仏(浄土門)は頓であると言いますが、漸であるならば、まず近門、次いで大会衆門という具合に一歩一歩進んでいくことになるでしょうが、そうではなく頓となりますと、近門はすでにして大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門であるということにならざるを得ません。功徳大宝海に帰入することが、すでにして浄土の仲間になっていることであり、そしてそれは取りも直さず蓮華蔵世界に入っているということです。
 あらためて「功徳大宝海に帰入する」ということに思いを潜めてみますと、親鸞が浄土論をもとに「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」と詠っていますように、本願力に遇って功徳の大宝海に入ることは、「わが心」と「ほとけの心」がひとつになること(一心)であり、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」を生きるようになることですから、それは「すでにつねに浄土に居す」(末燈鈔、第3通)ことに他なりません。これが現生正定聚であり、即得往生です。信心と正定聚と往生は継時ではなく同時です。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問