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本文3 [『阿弥陀経』精読(その17)]

(8)本文3

 これまでは依報荘厳でしたが、今度は正報荘厳、すなわち極楽国土にいる阿弥陀仏と聖聚たち(声聞・菩薩)のことが讃えられます。

 舎利弗、なんぢが意(こころ)においていかん。かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙(しょうげ)するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民(の寿命)も無量無辺阿僧祇劫(あそうぎこう)なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。舎利弗、阿弥陀仏は、成仏よりこのかたいまに十劫なり。また舎利弗、かの仏に無量無辺の声聞の弟子あり、みな阿羅漢なり。これ算数(さんじゅ)のよく知るところにあらず。もろもろの菩薩衆、またまたかくのごとし。舎利弗、かの仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。また舎利弗、極楽国土には、衆生生ずるものはみなこれ阿毘跋致(あびばっち、不退、仏に成ることから退転しない)なり。そのなかに多く一生補処(一生を過ぎれば仏処を補うべき地位)あり。その数はなはだ多し。これ算数のよくこれを知るところにあらず。ただ無量無辺阿僧祇劫をもつて説くべし。舎利弗、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人(もろもろのすぐれた聖聚)とともに一処に会する(倶会一処)ことを得ればなり。舎利弗、少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。

 まずは阿弥陀仏について。釈迦は舎利弗に問います、極楽国土の仏をどうして阿弥陀というのだろうか、と。阿弥陀とは「アミタ」すなわち「無量」という意味ですが(amitaのaは否定辞で、mitaは有量ですから、amitaで無量の意味になります)、何が無量なのだろうかということです。その問いにみずから答えて、まずその光明(abha)が無量であると言います(amitabha、アミターバ)。その光明は十方世界を隈なく照らすということです。そしてさらに寿命(ayus)が無量だと言います(amitayus、アミターユス)。阿弥陀仏とは無量のひかりの仏(無量光仏)であり、無量のいのちの仏(無量寿仏)であるということです。

タグ:親鸞を読む
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