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是心作仏、是心是仏 [『観無量寿経』精読(その38)]

(12)是心作仏、是心是仏

 華座観の後、いよいよ「次にまさに仏を想ふべし」とあります。そして「かの仏を想はんものは、まづまさに像(似姿)を想ふべし」と像観が説かれていくのですが、その前に意味深長な文句が出てきます。「是心作仏、是心是仏(ぜしんさぶつ、ぜしんぜぶつ、この心作仏す、この心これ仏なり)」です。この一文は古くから注目され、さまざまに解釈されてきました。一例として『論註』にはこうあります、「是心作仏とは、いふこころは、心よく作仏するなり。是心是仏とは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとへば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」と。
 龍樹の徒としての曇鸞の面目躍如です。われらの心の他のどこかに仏がいるわけではないことを、木と火の譬えで説きます。われらは燃える木を見て、まずもって木というもの(実体)があり、それが燃えている(火がついている)と捉えます。しかし龍樹ならばこう言うでしょう、「燃えている木は燃えない、燃えていない木は燃えない、ゆえに木は燃えない」と。「燃えている木は燃えない」とは「すでに燃えている木は、(もう燃えているのですから)その上にさらに燃えることはない」ということです。「燃えていない木は燃えない」とは文字通り、燃えていないのですから燃えません。そして「燃えている木」か「燃えていない木」しかありませんから、結論として木は燃えないということになるわけです。
 曇鸞(そして龍樹が)が問題にしているのは、「木が燃える」という言語表現が「木」という主語と「燃える」という術語を切り離すことで、木という実体があり、それが燃えるという属性をもつというように思わせてしまうということです。実際には「燃える木」というひとつの切り離せない関係(繋がり、すなわち縁)があるだけなのに、それを「木が燃える」と表現することによって、「木」と「燃える」を実体と属性として分離しているのです。かくして「木」と「火」が別々にあるかのような思い込みが生まれます。しかし火は「木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となる」のです。
 木とは別のどこかに火があるのではないように、心とは別のどこかに仏がおわすのではありません。木に火が着くように心に仏が着くのであり、「木、火のために焼かれて、木すなはち火となる」ように「心、仏のために焼かれて、心すなはち仏となる」のです。

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像観 [『観無量寿経』精読(その37)]

(11)像観

 次は第八観、像観です。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ三十二相(仏にそなわるすぐれた相)・八十随形好(微細な相)なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海(正遍知は如来十号の一)は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繫念(けねん、念をかける)して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度(ただあかど、タターガタの音写、如来と訳す)・阿羅訶(あらか、アルハットの音写、応供・阿羅漢ともいう、如来十号の一)・三藐三仏陀(さんみゃくさんぶつだ、等正覚、如来十号の一)を観ずべし。かの仏を想はんものは、まづまさに像を想ふべし。閉目開目に一つの宝像の閻浮檀金色(えんぶだんごんじき、最高の金の色)のごとくにして、かの華上に坐せるを見よ。像の坐せるを見をはらば、心眼開くることを得て、了々分明に極楽国の七宝荘厳の宝地・宝池・宝樹行列(ごうれつ)し、諸天の宝幔その上に弥覆(みふ、おおう)し、衆宝の羅網、虚空のなかに満てるを見ん。かくのごときの事を見ること、きはめて明了にして、掌のうちを観るがごとくならしめよ。この事を見をはらば、またまさにさらに一つの大蓮華をなして仏の左辺に在(お)くべし。前の蓮華のごとくして等しくして異あることなし。また一つの大蓮華をなして仏の右辺に在け。一つの観世音菩薩の像、左の華座に坐すと想へ。また金光を放つこと、前のごとくして異なし。一つの大勢至菩薩の像、右の華座に坐すと想へ。この想成ずる時、仏・菩薩の像はみな光明を放つ。その光金色にしてもろもろの宝樹を照らす。一々の樹下にまた三つの蓮華あり。もろもろの蓮華の上におのおの一仏二菩薩の像ましまして、かの国に遍満す。この想成ずる時、行者まさに水流・光明およびもろもろの宝樹・鳬(ふ、かも)・雁・鴛鴦(えんおう、おしどり)のみな妙法を説くを聞くべし。出定・入定(禅定に入ると出る)のつねに妙法を聞く。行者の聞きしところのもの、出定の時憶持して捨てず、修多羅(しゅたら、経典)と合せしめよ。もし合せざるをば、名づけて妄想(もうぞう)とす。もし合することあるをば、名づけて粗想(そそう、あらかた)に極楽世界を見るとす。これを像想とし、第八の観と名づく。この観をなすものは、無量億劫の生死の罪を除き、現身のなかにおいて念仏三昧を得ん」と。

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第十八願 [『観無量寿経』精読(その36)]

(10)第十八願

 学校の先生は生徒に言うものです、「しっかり勉強しなさい、そうすれば間違いなく成績がよくなります」と。それと同じように、法蔵菩薩は衆生に「心から信じてわが浄土に生まれたいと願い、たったの十声でも南無阿弥陀仏と称えなさい、そうすれば間違いなくわが浄土へ往生できます」と請け合っていると解釈されるのです。これを聞いたものは「そうか、しっかり信心して念仏すれば往生できるのか、ではこれまでの怠け心を改めて信心と念仏に励もう」と思う。さて、これが浄土のほんとうの教えでしょうか。法蔵菩薩はほんとうにそのように誓っているのでしょうか。
 この解釈では、「至心信楽」と「欲生我国」と「乃至十念」は往生のための条件として衆生に「課されている」ということになりますが、もういちど第十八願をよく見ていただきたい。「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば」とあって、「もし(若)」は「心を至し信楽して云々」の前ではなく、その後につけられています。「もし」が「心を至し信楽して云々」についているのでしたら、もう疑問の余地なく、「至心信楽」等が往生の条件として衆生に課されています。しかし「もし」は「生れざれば」についていて、一切衆生の往生が法蔵の成仏の条件として課されているのです。
 「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん」は、「十方の衆生よ」と法蔵が呼びかけているのではありません。法蔵は自分の心に、あるいは師である世自在王仏に対して、「十方の衆生が、心から信じてわが浄土に生まれたいと願い、たったの十声でも南無阿弥陀仏と称えるようにしたい」と誓っているのです、そうしてわが国に迎えたいと。したがって「至心信楽」と「欲生我国」と「乃至十念」は往生のための条件として衆生に「課されている(aufgegeben)」のではありません、「往生浄土」とともに衆生に「与えられている(gegeben)」のです。
 「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成なり」に戻りますと、これは、華座観だけでなく、浄土がわれらに開示されるのはすべて法蔵比丘の願力によるのであると言っているに違いありません。

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法蔵比丘の願力 [『観無量寿経』精読(その35)]

(9)法蔵比丘の願力

 ここには限りませんが、一々の○○には八万四千の△△があり、その一々の△△にはまた八万四千の××があるという説き方を忠実に追っていきますと、極大と極小のあいだで目くるめくような思いにさせられます。そしてこれはもうわれらの心のキャパシティをはるかに超えていると感じさせられます。それがミタからアミタへの通路は閉ざされているということに他ならないでしょう。われら「ミタのいのち」には「アミタのいのち」に近づくすべはないことを思い知らせようとしているということです。これが顕の義に対する隠の義に違いありません。
 さて、ここで釈迦は阿難に「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成(しょじょう)なり」と告げます。突如、無量寿仏の因位(いんに)である法蔵比丘が登場してきて、すべてはその願力のなせるわざであると告げられるのです。これまでのところでは、無量寿仏とその極楽浄土は所与のものとして説かれてきましたが、無量寿仏の因位は法蔵比丘であり、そして極楽浄土のすべては法蔵の本願が成就したものであることが明かされるのです。ここにおいて『観経』が『大経』とひとつに繫がれたと言っていいでしょう。『大経』では、法蔵菩薩の四十八願が成就して無量寿仏となり、そして極楽浄土が生まれたことが説かれたのですが、『観経』において、韋提希が無量寿仏の極楽浄土へ往生することを願い、釈迦がそのための方法を説くという関係になります。
 かくして韋提希が選んだ無量寿仏とその浄土の根源は法蔵菩薩の四十八願にあることが明らかになります。そして四十八願の眼目は、浄土教の祖師たちの誰もが共通して、第十八願にあると言います、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじと」と。さてしかしこれをどう読むべきか。さまざまな本を読んだり、お話を聞いたりしていますと(Uチューブで手軽にいろいろな方の講演を聞くことができます)、この誓いはしばしば次のように解釈されます。「十方世界のあらゆる衆生たちよ、心から信じてわが浄土に生まれたいと願い、たったの十声でも南無阿弥陀仏と称えなさい、そうすれば必ずわが浄土へ往生させましょう、もし往生できないならば、わたしは仏になりません」と。

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華座観 [『観無量寿経』精読(その34)]

(8)華座観

 では第七の華座観です。

 仏、韋提希に告げたまはく、「かの仏を観たてまつらんと欲(おも)はんものは、まさに想念を起すべし。七宝の地上(じじょう)において蓮華の想をなせ。その蓮華の一々の葉(はなびら)をして百宝の色をなさしめよ。八万四千の脈(すじ)あり、なほ天の画(え)のごとし。脈に八万四千の光あり、了々分明に、みな見ることを得しめよ。華葉(はなびら)の小さきは、縦広二百五十由旬(ゆじゅん)なり。かくのごときの蓮華に八万四千の葉あり。一々の葉のあひだにおのおの百億の摩尼珠王(まにしゅおう、如意珠王と同じ)ありて、もって映飾(ようじき)とす。一々の摩尼、千の光明を放つ。その光蓋(天蓋)のごとく七宝合成(ごうじょう)せり。あまねく地上を覆へり。釈迦毘楞伽宝(しゃかびりょうがほう)をもつてその台(うてな)とす。この蓮華の台は、八万の金剛・甄叔伽宝(けんしゅくかほう、甄叔伽という木の花の色に似た赤色の宝石)・梵摩尼宝(梵はきよらかなの意)・妙真珠網をもつて交飾(きょうじき)とす。その台の上において自然にして四柱の宝幢(ほうどう、宝のはたぼこ)あり。一々の宝幢は百千万億の須弥山のごとし。幢上の宝幔(ほうまん、宝の幔幕)は、夜摩天宮(やまてんぐ)のごとし。また五百億の微妙の宝珠ありて、もつて映飾(ようじき)とす。一々の宝珠に八万四千の光あり。一々の光、八万四千の異種の金色をなす。一々の金色、その宝土に遍し、処々に変化して、おのおの異相をなす。あるいは金剛の台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑華雲(いろいろの花で飾られた雲)となる。十方面において、意に随ひて変現して仏事を施作す。これを華座の想とす、第七の観と名づく」と。仏、阿難に告げたまはく、「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成(しょじょう)なり。もしかの仏を念ぜんと欲はんものは、まさにまづこの華座の想をなすべし。この想をなさん時、雑観することを得ざれ。みな一々にこれを観ずべし。一々の葉・一々の珠・一々の光・一々の台・一々の幢(はたぼこ)、みな分明ならしめて、鏡のなかにおいてみづから面像を見るがごとくせよ。この想成ずるものは、五万劫の生死の罪を滅除し、必定してまさに極楽世界に生ずべし。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

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むこうから開示される [『観無量寿経』精読(その33)]

(7)むこうから開示される

 「アミタのいのち」の声がむこうから「聞こえて」はじめて「アミタのいのち」が開示されると述べましたが、「アミタのいのち」の声が聞こえるといいましても、摩訶不思議な声が空中から下りてくるということではありません。それでは無量寿仏が空中に住立するのと何も変わることなく、オカルトになってしまいます。そうではなく、「アミタのいのち」の声はすぐ目の前にいる善知識・よき人のことばを通して、そのなかから聞こえてきます。たとえば法然聖人の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という仰せのことばを通して、そこから「なんぢ一心正念にしてただちに来れ」という「アミタのいのち」の声が聞こえてくるのです。
 さてそうしますと「無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立したまふ」ということばの裏に秘められた隠の義は何でしょう。
 それを示唆してくれるのが、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり」という韋提希のことばです。「アミタのいのち」は「アミタのいのち」によって開示されるしかないということ、こちらからどれほど近づこうとしても決してそれを見ることも聞くこともできないということ、これです。先ほど言いましたように、無量寿仏が空中に住立したもうたのは、釈迦がこれから無量寿仏を観る方法を説こうとしたときでした。つまりこちらから観ようとするより前に、むこうからあらわれたということです。
 これはミタからアミタへの通路はなく、ただアミタからミタへの通路だけがあるということをここで暗示していると考えられます。
 そして韋提希が釈迦に自分は幸い仏力により無量寿仏を観ることができたが、「未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と尋ねたのに対して、これから第七観以下が説かれることになるのですが、それもすべて「方便」であることを忘れてはならないということです。表にあらわれている意味とは別に、その裏に隠されている意味があり、それを読み取らなければならないのです。

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かたちもなくまします [『観無量寿経』精読(その32)]

(6)かたちもなくまします

 それよりもっと根本的な戸惑いは、無量寿仏が空中にその姿をあらわすことそれ自体にあります。無量寿仏とは「アミタのいのち」であり、アミタ(無量)とは姿・形がないということではないのでしょうか。親鸞は「自然法爾章」においてこう述べています、「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料(手立て)なり」と。
 「かたちもましまさぬ」阿弥陀仏が空中に住立し、それを韋提希が見たというのはどういうことでしょうか。
 親鸞が「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」(「教巻」)と述べ、『観無量寿経』には「顕彰隠密の義」(「化身土巻」)があると言いますが、それは、この『観無量寿経』のおもてにあらわれた教え(顕の義)をそのままに受け取ってはいけない、その裏に隠された教え(隠の義)を汲み取らなければならないということです。それが方便ということで、おもてにあらわれた教えは真実の教えに導くための手立てとして説かれているのだと言っているのです。
 韋提希が空中に住立する無量寿仏を見るということは、こちらに見る韋提希がいて、あちらに見られる無量寿仏がいるということになりますが、韋提希がそうである「ミタ(有量)のいのち」と、無量寿仏がそうである「アミタ(無量)のいのち」はそのような関係ではありえません。そもそも「アミタのいのち」の外に「ミタのいのち」があるなら、それはもう「アミタのいのち」ではないということです。「アミタのいのち」が真に「アミタのいのち」であるならば、「ミタのいのち」はすべて「アミタのいのち」のなかに包摂されていなければなりません。
 「ミタのいのち」は「ミタのいのち」のままで「アミタのいのち」であるというこの関係は、「観る」ではなく「聞こえる」というかたちの他には了解するすべはありません。「アミタのいのち」の声がむこうから「聞こえて」はじめて「アミタのいのち」が開示されるのです。

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無量寿仏、空中に住立したまふ [『観無量寿経』精読(その31)]

(5)無量寿仏、空中に住立したまふ

 さて次が第七観、華座観ですが、その前に驚くべきことが起こります。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説(げせつ)すべし。なんぢら憶持(おくじ、心にとどめる)して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。この語を説きたまふ時、無量寿仏、空中に住立(じゅうりゅう)したまふ。観世音・大勢至、この二大士(だいし、菩薩のこと)は左右(さう)に侍立(じりゅう)したまふ。光明は熾盛(しじょう)にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色(えんぶだごんじき)も比とすることを得ず。時に韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼(せっそくさらい、ひざまずいて両手で相手の足の甲に触れ、それを自分の頭におしいただく礼拝法)して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。

 これまでは極楽浄土を観るために日想から水想、地想、樹想、池水想、楼閣想が説かれてきたのですが、ここからは浄土の主である無量寿仏および観音・勢至の姿を観ることに移っていきます。そこで釈迦はあらためて「あきらかに聴け、あきらかに聴け(諦聴、諦聴)」と注意を促しているのでしょう。で、そのとき突然、まさに何の前触れもなく当の無量寿仏と観音・勢至の二大士が空中にその姿をあらわすのです。これは娑婆の釈迦と浄土の弥陀があい呼応しているということを述べているのでしょうが、さてこれをどう受けとめればいいのか戸惑わざるをえません。
 まずこれは、釈迦から無量寿仏などを観るための方法が示され、それにしたがった結果としてその姿を観ることができたということではありません。それが示される前に、突如として無量寿仏たちが姿をあらわしたのです。そのことを韋提希は「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり」と述べていますが、これは、われらが無量寿仏および二菩薩を見ようとしてもできることではないと言っていると思われます。としますと、韋提希の「未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」という問いに答えて、釈迦がこの後そのための方法を説くことになるのはどういうことかと思います。

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getとawake [『観無量寿経』精読(その30)]

(4)getとawake

 「さとる」は「悟る」とも「覚る」とも書きます。「悟る」はgetに近いと言えますが、「覚る」となりますとawakeがふさわしく、眠りから目覚めるというイメージです。
 釈迦は菩提樹の下で、これまで真理をgetしようと苦闘してきたが、ことごとく失敗に終わったことについてじっと内省したに違いありません。そのとき彼にある気づきが訪れたと思われます、これまで真理はgetするものだと思い込んでいたが、そのこと自体に問題があるのだと。真理にはこちらからgetしなければならないものもあるが、いや、大半はそういうものだろうが、しかし、いま必要な真理(生死の迷いから抜け出るのに必要な真理)はこちらからgetしようとしてもできない体のものであり、getしようとすればするほど遠ざかるのだと気づいたのではないでしょうか。むしろ真理は向こうからやってきて、あるときわれらがそれにgetされるのだと。
 われらが真理をgetするのではなく、真理がわれらをgetするのだということです。
 向こうからやってきた真理がわれらをgetするとはどういうことかと言いますと、ある声が「聞こえる」ということです。向こうからある声がやってきて、それがわれらに聞こえたとき、有無を言わさずわれらをgetするのです、われらをgraspしてしまうのです。これが目覚めるということ、awakeの経験です。このように真理がわれらをgetすることがawakeの経験ですが、われらが真理をgetするのではなく、真理がわれらをgetするのだと気づくこと自体がひとつのawakeの経験です。釈迦は菩提樹の下でこのawakeの経験をしたに違いありません。そしてgetとawakeの違いについて思いを廻らすなかで、無我ということに思い至ったと思われます。
 われらが真理をgetするということは、まず「われ」があるということです。しかる後に真理を「わがもの」とする、これがgetするということです。それに対して真理にawakeする(気づく)というのは、まず真理がわれらをawakeさせる(目覚めさせる)ということで、そのとき「われ」はまだ姿をあらわしてしません。awakeの経験があって、しかる後にはじめて「われ」が登場してきます。getにおいては「われ」がgetに先行しますが、awakeにおいては「われ」はawakeに遅れをとるのです。まず「われ」がある(「われ思う、ゆえにわれあり」)というのは思い込みだということ、これが無我ということです。

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観ると聞こえる [『観無量寿経』精読(その29)]

(3)観ると聞こえる

 さて、樹想観では、ただ樹々の神々しい姿、それを覆う真珠の網の美しさ、そして樹の葉や華や果の麗しい姿を想うだけですが、次の池水観、そして楼閣観になりますと、次第に姿・形よりも、音・声の要素が大きくなってきて、楼閣はもう一大音楽堂の様相を呈してきます。「観る」ことよりも「聞こえる」ことに重心が移っていくということです。すでに第二の水想観において、清風が楽器を鼓って「苦・空・無常・無我」の音声を出していましたが、第五の池水観においても樹の間を流れる水が「苦・空・無常・無我・諸波羅蜜」の声を出し、また第六の楼閣観においては楽器がおのずから鳴って「仏を念じ、法を念じ、比丘僧を念ずることを説く」とあります。
 ここであらためて「観る」と「聞こえる」のコントラストについて思いを潜めたい。
 「一切皆苦」・「色即是空」・「諸行無常」・「諸法無我」は釈迦が捉えた世界の真理であるとされます。釈迦は世界のありようを見つめ、それを深く思索し、その結果としてこれらの真理を得たのだと。真理というものは、それを「見る」ものであり、それを「思索する」ものであり、それを「捉える」ものであり、それを「得る」ものであるのは当たり前だと思います。ぼくはそれをgetすると言ってきました。あるいはgraspということばもピッタリではないでしょうか。手にしっかり握りしめるということです。そもそも世の学問はみな真理をgetしgraspしようとする営みであり、学者たちは日々そのことでしのぎを削っています。
 釈迦が29歳の時にすべてを捨てて出家したのも、世界の真理をわが手にgetしgraspしようと思ってのことに違いありません、そうすることで生死の迷い(生老病死の苦しみ)から抜け出ることができるに違いないと。そうして釈迦は二人の師(まずアーラーラ・カーラーマ、そしてウッダカ・ラーマプッタ)につきますが、その教えによっては真理をgetできたとは思えず、次いで釈迦は仲間たちと厳しい苦行の生活に入ります。苦行こそ真理getの唯一の道であると信じてのことでしょう、釈迦は仲間が驚くほどの徹底した苦行を敢行しますが、しかしどうしても真理をgetできない。ついに彼は苦行を打ち切り、ネーランジャラー河で身を浄め、そして樹下で瞑想します。そして35歳の釈迦は真理をさとったと仏伝は教えてくれます。そのとき釈迦は真理をgetしたのでしょうか、わが手に捉え、しっかり握りしめたのでしょうか。

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