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4月25日(月) [矛盾について(その266)]

 ある人は感じ、ある人は感じないのは何ともしようがないことですが、だからと言って悲観することはありません。源左に感じられたということは、他の誰にでも感じられるはずだからです。いずれ同行にもふいっと感じられるに違いない、そう思えるからこそ源左から「ようこそ、ようこそ」ということばが出てくるのです。
 源左はつねづねこんなふうに言っていました。「誰が悪いの彼が悪いのちゆうても、この源左ほど悪い奴はないでのう。その悪い源左を一番に助けると仰しやるで、他の者が助からん筈はないだがやあ。有難いのう」と。こんな自分に「つながり」が感じられたからには、他のどんな人にも感じられるに違いないという思い。ここから同行の「どうして自分には感じられないのか」に対しても「ようこそ、ようこそ」と言えるのです。
 源左は同行たちにとって「つながり」の「生き証人」だと言えるでしょう。源左がふいっと感じたことは、他の誰にとってもそれが確かに感じられる証だからです。源左としては、「どのようにしたら感じられるか」を言うことはできませんが、自分がどんなふうな状況でふいっと感じたかを証言することはできます。同じようにすれば誰でも感じられるということではありませんが、しかしそれを聞かせてもらうことで、自分もいずれふいっと感じることができると思えるのです。

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