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8月20日(土) [矛盾について(その382)]

 賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは」のメッセージと自分の幸せが一番と考える己とのねじれ(矛盾)を生きたに違いないことは、彼の作品たち(「よだかの星」「なめとこ山の熊」などなど)がはっきりと示してくれています。そして、彼がこのねじれを生きたということは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは」のメッセージが彼自身の中から出てきたのではなく、どこかからやってきたということです。
 どうしてそんなことが言えるのか。どちらも彼自身の中から出てきたと考える方が自然ではないのか、という疑問が起こるに違いありません。それはいわゆる葛藤という現象ではないか。自分の幸せが一番と思いながら、ひとの足を引っ張っていることにこころが咎めるというのは、こころの中で欲望と理性がせめぎ合っているということではないかと。
 ぼくらは「自分の幸せが一番」と思っていますが、だからと言って、ひとの幸せはどうでもいいと思っているのではありません。ひともまた「自分の幸せが一番」と思っているのですから、ひとが幸せになる権利を踏みにじっても自分の権利を通そうとするわけではありません。自分ひとりがよければいいのではなく、そこにカントの言う普遍性がなければならないと思っているのです。
 こんなふうに「自分の幸せが一番」とは言いながら、理性的にふるまおうとするのですが、それだけでいいとは思えずに、結局誰かの足を引っ張っていることになるじゃないかとこころを痛めるのです。それは「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という声が聞こえるからです。この声はどこかからやってきて「そのまま生きていていいのか」と問いかけるのです。

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