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いのちの故郷 [『末燈鈔』を読む(その176)]

(7)いのちの故郷

 もし動物に「わたし」がないとしますと、ことあるごとに「わたし」がしゃしゃり出てくるのはぼくら人間に特有のことだということです。ぼくらはどういうわけか自己同一的な「わたし」をもつようになり、もうそれなしでは生きていけなくなった。だからこそ「法蔵菩薩われらに回向したまへる」ことにひっかかってしまうのです、「そんなら、“わたし”はどうなるの?」と。
 でも、人間以外のあらゆる生きものに「わたし」などはなく、ぼくら人間だけが「わたし」、「わたし」と騒いでいるにすぎないとしますと、「法蔵菩薩われらに回向したまへる」をコペルニクス的転回とは言ったものの、それこそ生きものの元の姿であり、そこに戻っただけと見ることもできます。なーんだ、それがいのちあるものの普通のあり方ではないかというわけです。
 さてしかし、それが生きものの普通の姿だからといって、じゃあそこにもう一度戻ろうというわけにはいきません。時間を逆回しすることはできないのです。ぼくらは二足歩行により人類の道を歩み始めたのですから、もういちど四足歩行に戻ることができないように、「わたし」の世界から、それのない世界へ引返すことはできません。「わたし」を否定しようとしても、デカルトではありませんが、そこにはまた「わたし」が顔を出すのです。
 では親鸞のコペルニクス的転回にはどんな意味があるのか。
 「わたし」がまだなかった「いのちの故郷」へ戻ることはできなくとも、それが「いのちの故郷」であることに気づくことはできます。それに気づかせてくれるのが「弥陀仏の御ちかひ」ではないでしょうか。そうか、ぼくらは「わたし」、「わたし」と騒いでいるが、もともといのちに「わたし」などなかったのだと気づかせてもらえるのです。


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