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この光に遇う [『浄土和讃』を読む(その19)]

(9)この光に遇う

 十二光の四番目、無対光の讃嘆です。

 「清浄光明ならびなし 遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば 一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ 畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ」(第7首)。
 「きよらなひかりほかになし。このみひかりに遇うたゆえ、すべての濁りきえさった。たのみの綱に帰命せん」。

 もとの曇鸞の偈は「清浄の光明対(なら)ぶものあることなし ゆゑに仏をまた無対光と号けたてまつる この光に遇うもの業繋除こる このゆゑに畢竟依を稽首(けいしゅ)したてまつる」で、和讃の第二句「遇斯光のゆゑなれば」とは「この光に遇うゆえに」の意味であることが分かります。弥陀の光明は他にならぶものがなく、この光に遇うことができれば、あらゆる業繋(煩悩です)が除かれるというのです。だからこそ、この究極の拠りどころ(畢竟依)である阿弥陀仏に帰命すると。
 まず目を引くのは遇斯光(この光に遇う)ということばです。親鸞はこの「遇う」という言い回しを大事にします。すぐ頭に浮かぶのは『教行信証』序の「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」という一節です。これまで何度となくこの言い回しについて考えてきましたが、親鸞浄土教の真髄とも言うべきことですので、何度でも味わいたいと思います。
 「遇う」は「会う」と異なり、「意図することなく」、「ばったり」誰かと遇います。そして、同じことですが、遇ってしまってから遇ったことに気づきます、「あゝ、あなたでしたか」と。ですから、遇うのは〈いま〉です。「あひがたくして〈いま〉あふことをえた」のです。親鸞がはじめて本願に遇ったのは、まだ若かった二十九歳のときだったでしょう。でも、本願に遇うのは〈いま〉しかありません。
 本願に遇うのは、それが過去であれ、現在であれ、未来であれ、遇ってしまったと気づくというかたちしかないということです。それが〈いま〉ということです。

タグ:親鸞を読む
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