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如来興世の本意には、本願真実ひらきてぞ [『浄土和讃』を読む(その102)]

(4)如来興世の本意には、本願真実ひらきてぞ

 仏教と言いますと、空や無我、縁起といった、何か近寄りがたく、だからこそ有り難い教説を思い浮かべるのが普通ではないでしょうか。ですから「教巻」という名前から、そうした教えが説かれていることを期待してしまうのですが、浄土の教えはどうも様子が違うのです。『無量寿経』という経典そのものが、釈迦の高踏な理論を説くのではなく、弥陀の本願を世に明らかにするものです。釈迦はこの経において、みずからの悟りを語り聞かせるのではなく、弥陀の本願を伝達しているのです。
 「序分」はそのことを言おうとしているのだと親鸞は捉えた。そしてそこに浄土教の、ひいては仏教の本質があるからこそ、「教巻」において「序分」の所説を掲げ、そして「大経和讃」において冒頭4首を「序分」に捧げたのだと思います。釈迦が無我や縁起の法を説いたのは間違いありませんが、大事なことはそれを釈迦がみずからつかみ取ったのではなく、弥陀の本願として受け取り、それを後世に伝えたということです。
 「如来興世の本意には、本願真実ひらきてぞ」とはそういうことです。
 経に「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀したもう。ゆえに世に出興して、道教を光闡し、群萌を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲す」とあるのを親鸞はこの短いことばに約めたのですが、その意味するところは、釈迦がことあたらしく真理を悟り、それを衆生に分かち与えるというのではなく、久遠のむかしからある弥陀の本願を群萌に伝達するということです。経に「仏と仏とあい念じたもう」とあり、親鸞はそれを「大寂定にいりたまひ 如来の光顔たへにして」とうたっていましたが、これらは久遠の本願が仏から仏へとリレーされていくことを表しているに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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