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無義をもて義とす [『歎異抄』を聞く(その98)]

(11)無義をもて義とす

 「無義をもて義とす」の無義とは「義なし」ですから、「義なきを義とす」ということになりますが、親鸞はこれを法然のことばとして、しばしば手紙のなかで紹介しています。たとえば、「如来の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人(法然)のおほせごとにてありき」(『末燈鈔』第2通)、「しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人の仰に候き」(同、第7通)、「また弥陀の本願を信じさふらひぬるうへには、義なきを義をすとこそ大師聖人のおほせにてさふらへ」(『親鸞聖人御消息集』第40通)など。
 親鸞にはこのことばが法然の教えのエッセンスとしてしっかりこころに焼き付けられたようです(法然はみずから書を残すことをほとんどしなかった人ですが、ここにも「義なきを義とす」の精神があらわれているのでしょう)。
 「義なきを義とす」という文には二つの「義」がありますが、前の義が「はからい」の意味であることは、親鸞自身、上にあげました『末燈鈔』第2通の引用文につづいて「義をいふことは、はからうことばなり。行者のはからひは自力なれば、義といふなり」と言っていることから明らかです。そして後の義は普通に「正しい」ということですから、「はからいのないことが正しい」という意味になります。本願を信じ名号を称えるには「はからい」があってはいけないというのです。
 「はからい」とは分別のことです。「これはよし、あれはわるし」という分別。言うまでもありませんが、ぼくらは朝から晩まで「はからい」をしています。車の運転を考えてみれば、一瞬でも「はからい」を忘れてしまいますとおおごとになります。このように、ぼくらの生活は「はからい」で満たされていると言わなければなりませんが、とすると「義なきを義とす」とはどういうことか。ぼくらの普通の生活には「はからい」が欠かせないが、ただ本願を信じ念仏をもうすことについてだけは「はからい」があってはいけない、と言っているのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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