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歴史的な悪 [正信偈と現代(その142)]

(4)歴史的な悪

 釈迦があらゆる苦しみのもとに我執があると言うとき、その我執が悪に他なりませんが、ただその悪は個人的なものにとどまっていると言えます。「わがものへのとらわれ」はその人自身に苦しみを与えるのであって、そのとき他の人のことは視野の外にあります。ところが道綽にとって悪はもはや個人的なものではなく、時代の悪であり社会の悪です。わが悪はとりもなおさず社会の悪であり、社会の悪はそのままわが悪であるというように、悪が個人的なレベルから社会的・歴史的なレベルへと移っているのです。
 道綽が「当今は末法、現にこれ五濁悪世なり」というとき、この歴史的な悪(親鸞なら宿業と言うでしょう)のなかにある自分を意識していたに違いありません。
 末法の五濁悪世のただなかで聖道門的な語りにこころ静かに耳を傾けることができるか、これが道綽の問いです。聖道門的な語りとしては「生死すなはち涅槃なり」を上げることができますが、五濁悪世に生きるものにとって「五濁悪世に生きることがそのままで涅槃である」という語りをどのように受けとめることができるでしょう。道元ならこう答えるかもしれません、「五濁悪世が障害となるのなら、俗塵をさけて、人里を遠く離れた山中において仏道修行をすればいいではないか」と。実際彼は北陸の雪深い土地に永平寺を建て、坐禅修行をしたのでした。
 しかしそれは道綽のとれる道ではありません。わが悪は社会の悪であり、社会の悪はわが悪であるならば、たとえ俗塵から離れたとしても五濁悪世にいることに変わりありません。どんな奥深い山中にいても歴史的な悪から逃れることはできないのです。そんな悪のなかに生きるものに「生死すなはち涅槃なり」という語りは心に届くでしょうか。どうしてこの悪にまみれた生死がそのままで涅槃なのかという疑問の前にたたずむしかありません。かくして「それ聖道の一種は、今の時、証し難し」と言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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