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「われへの囚われ」を思い出す [親鸞最晩年の和讃を読む(その38)]

(4)「われへの囚われ」を思い出す

 そこで、信心とは「心の囚われに気づかせてもらうこと」であるというのを、信心は「これまですっかり忘れていた心の囚われをふと思いだすこと」と言い換えたらどうでしょう。われらはもともと(生まれる前に)「われへの囚われ」についてよく知っていたのですが(したがって「われへの囚われ」がないとはどういうことかもよく知っていたのですが)、この世に生まれてくるときに、それをすっかり忘れてしまい、忘れたこと自体を忘れてしまった。ところがあるとき、何かの縁で、心の囚われをふと思いだす。そのとき「あゝ、“われへの囚われ”のなかにあるのだ」と知ることができるのです。そして囚われていることを知るのは、囚われていないことがどういうことかも知ることであり、囚われから片足だけ抜け出すことに他なりません。
 このように「気づかせてもらう」を「ふと思い出す」と言い換えますと、「どこから気づかせてもらうのか?」という厄介な問いから解放されます。もとから心の中にあるものを思い出すだけですから。われらはもともと「われへの囚われ」とはどういうことかを知っているのです(ということは「われへの囚われ」がないことも知っています)。ところがこの世に生まれてくるときに、それをすっかり忘れ果て〈忘れたこと自体を忘れて〉、「われへの囚われ」のなかにありながら、それをまったく意識することなく生きています。しかし、あるときふと思い出す。思い出そうとして思いだすのではありません、ふと思い出すのです。忘れていること自体を忘れているのですから、自分で思い出そうとするはずがありません。気がついたら思い出しているのです。
 信心の智慧を賜るというのは、もとから心の中にあるものをふと思い出すということではないでしょうか。「われへの囚われ(我執)」を思い出すということですが、それは同時に囚われからの解放(無我)を思い出すことです。仏とは無我の人のことですから、無我を思い出すということは仏に遇うということに他なりません。「信心の智慧にいりてこそ、仏恩報ずる身とはなれ」とはそういうことです。仏に遇うことができ、はじめて仏を憶う身となるのですが、仏を憶うことは、取りも直さず仏恩を感謝することです。ThinkはThankです。DenkenはDankenです。

タグ:親鸞を読む
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