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第1帖・第4通の後段 [「『おふみ』を読む」その28]

(3)第1帖・第4通の後段

問うていはく、正定聚と滅度とは、(いち)(やく)とこころうべきか、また()(やく)とこころうべきや。

答へていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもうべきものなり。

問うていはく、かくのごとくこころえ候ふときは、往生は治定(じじょう)と存じおき候に、なにとてわしく信心を具すべきなんど沙汰候ふは、いかがこころえはんべるべきや。これも承りたく候

答へていはく、まことにもつて、このたづねのむね肝要なり。さればいまのごとくにこころえ候ふすがたこそ、すなわち信心決定のこころにて候ふなり。

問うていはく、信心決定するすがた、すなはち平生業成と不来迎と正定聚との道理にて候ふよし、分明(ぶんみょう)に聴聞つかまつり候ひをはりぬ。しかりといども、信心決定してのちには、自身の往生極楽のためとこころえて念仏申し候ふべきか、また仏恩報謝のためとこころうべき、いまだそのこころを得ず候ふ

答へていはく、この不審また肝要とこそおぼえ候へ。そのゆゑは、一念の信心発得已後(ほっとくいご)の念仏をば、自身往生の業とはおもべからず。ただひとに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり。されば善導和尚(かしょう)の「上尽一形(じょうじんいちぎょう)下至(げし)一念(いちねん)」と釈せり。「下至一念」といは信心決定のすがたなり。「上尽一形」は仏恩報尽の念仏なりときこえたり。これをもてよくよくこころえられるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明四年十一月二十七日

(現代語訳) お尋ねします。正定聚と滅度すなわち悟りとは、一つの利益とこころえるべきでしょうか、それとも別々の二つの利益と理解すべきでしょうか。

お答えします。一念、信心を発起したときに正定聚となるのですから、これは穢土での利益です。一方、滅度は浄土においてえる利益とこころえるべきですから、この両者は別々の二つの利益と考えなければなりません。

お尋ねします。一念発起のときに正定聚となり、往生は定まったとこころえられますのに、どうして、煩わしくもそこには信心が備わっていなければならないなどと言われるのでしょう。どう考えたらいいか、お教えください。

お答えします。これまた大事なお尋ねですが、そのようにこころえられたことが、取も直さず信心が決定したということです。

お尋ねします。信心が決定したことが、すなわち平生業成であり、それが不来迎であり、また正定聚であるという道理はよく分かりました。しかしながら、信心が決定したのちには、自分の極楽往生のためにと思って念仏するべきでしょうか、それとも仏恩報謝のためと思って念仏すればいいのでしょうか。そこがよく分かりません。

お答えします。これも肝心なお尋ねです。一念の信心が決定しましたなら、それ以後の念仏は自分の往生のための行と考えるべきではありません。ただひとえに仏恩報謝のためとこころえてください。善導和尚は「上尽一形 下至一念」と注釈してくれましたが、「下至一念」と言いますのは、信心決定のことです。そして「上尽一形」は、仏恩報謝の念仏のことと思われます。ここからよくよくおはかりください。謹言


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