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第1帖・第5通 [「『おふみ』を読む」その34]

(9)第1帖・第5通

そもそも、当年より、ことのほか、加州・能登・越中、両三箇国のあひだより、道俗男女、群集をなして、この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとほり、いかがと心もとなく候ふ。そのゆゑは、まづ当流のおもむきは、このたび極楽に往生すべきことわりは、他力の信心をえたるがゆゑなり。しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。一大事というはこれなり。幸ひに五里・十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこころざしは、いかやうにこころえられたる心中ぞや。千万心もとなき次第なり。所詮以前はいかやうの心中にてありといふとも、これよりのちは心中にこころえおかるべき次第をくはしく申すべし。よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。そのゆゑは、他力の信心といふことをしかと心中にたくはへられ候ひて、そのうへには、仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こころざしをもいたすべきものなり。これすなわち当流の義をよくこころえたる信心の人とは申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明五年二月八日

(現代語訳) さて、今年になりまして、ことのほか多くの方々が、加賀・能登・越中の三か国から群れをなしてこの吉崎へお参りになられますが、その方々のこころのありようはどんなものだろうと心もとなく感じています。と言いますのは、当流におきましては、このたび極楽往生できるのも、他力の信心をえたからこそでありますのに、この方々のなかにしっかりと信心をえた人がいるとは思えません。そのようなことでどうして報土に往生することができましょうか。これこそ一大事と言わなければなりません。5里・10里の遠路をものともせず、しかもこの雪のなかをお参りされる、そのこころのうちはどのようなものでしょうか。どうにも心もとないものがあります。これまではどのように思われていたのであれ、これからのちは心得ていただきたいことを申し述べますので、よくよくお聞きください。まずは他力の信心ということをしっかりわきまえられ、そのうえには、仏恩報謝のために行住坐臥に念仏されること、このことに尽きます。このように心得られましたら、このたびの往生は確かです。このうれしさから、師匠である坊主のもとに足を運び、こころざしのものを届けるのももっともです。これが当流の教えをよく心得た信心の人というべきです。謹言。

 文明5年(1473年、蓮如59歳)2月8日


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