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第1帖・第7通の前段 [「『おふみ』を読む」その41]

第4回 第1帖・第7通、第8通、第9通

(1)第1帖・第7通の前段

さんぬる文明第四の暦、弥生中半(なかば)のころかとおぼえはんべりしに、さもありぬらんとみえつる女性(にょしょう)一二人、なんどあ具したるひとびと、この山のことを沙汰しうしけるは、そもそもこのごろ吉崎の山上に、一宇(いちう)の坊舎をたてられて、言語道断おもしろき在所(ざいしょ)かなと申し。なかにもことに加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥国より、かの門下中、この当山へ道俗男女参詣をいたし、群集せしむるよし、そのきこえかくれなし。これ末代の不思議なり。ただごとともおぼえはんべらず。さりながら、かの門徒の面々には、さても念仏法門をばなにとすすめられ候やらん。とりわけ信心といことをむねとしえられ候よし、ひとびと申しなるは、いかうなることにて候やらん。くしくききまらせて、われらもこの罪業深重のあさましき女人の身をもちて候へば、その信心とやらんをききわけまらせて、往生をねがたく候よしを、かの山中のひとにたずねうして候ば、しめしたまるおもむきは、「なにのようもなく、ただわが身は十悪・五逆・五障(ごしょう)(さん)(しょう)のあさましきものぞとおもて、ふかく、阿弥陀如来はかかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまらせて、ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまとおもこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明をちて、その身を摂取したまなり。これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまといるはこのことなり。摂取不捨といは、さめとりてすてたまずといこころなり。

(現代語訳) さる文明4年の3月半ばのことですが、由緒ありげな女性の二人連れが、従者をつれてやってこられ、この山についてこんなふうに言われました。「近頃、この吉崎の山の上に御坊が建てられ、なにやらとても興味深いところであるということです。なかでも加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州の七か国からこの山へ男も女も僧も俗も隔てなくぞくぞくと参詣されているよし、かくれもないことです。これは末法のの世の不思議と言わなければならず、ただごととも思えません。それにしても、その門徒の人たちには、いったいどのように念仏の教えが説かれているのでしょう。特に信心が肝心と説かれているということですが、どういうことでしょうか。われらは罪深い女人の身ですが、その信心とやらをよくよくお聞かせいただき、往生したいものでございます」と、こんなふうに山中のものに言われましたところ、次のような趣旨のご教示がありました。「なんということもなく、ただ自分自身は十悪・五逆・五障・三従のあさましき身であると思い知って、阿弥陀如来は、このようなあさましき身をたすけてくださるのであると深くこころえて、ふたごころなく弥陀をたのみ、たすけたまえと思う一念が起こるとき、かたじけなくも、如来は八万四千の光明をはなってその身を摂取してくださるのです。弥陀如来が念仏の行者を摂取してくださるというのはこのことです。摂取不捨といいますのは、おさめ取って捨てられないということです。


タグ:親鸞を読む
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