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十劫安心(じっこうあんじん) [「『おふみ』をよむ」その37]

(12)十劫安心(じっこうあんじん)

ちょっと先回りになりますが、1・13にこうあります、「ちかごろは、この(ほう)念仏者のなかにおいて、不思議の名言(みょうごん)をつかて、これこそ信心をえたるすがたよといて、しかもわれは当流の信心をよく知り顔(てい)に、心中にこころえおきたり。そのことばにいく、『十劫(じっこう)正覚(しょうがく)のはじめよりわれらが往生をめたまる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ』といり。これおきなるあやまりなり」「このごろ、この越前の国に、あやしげなことばをあやつり、われこそ当流の真実の信心をえたるものと言っているものがおります。そのものは、十劫のむかしに法蔵が正覚をとったときに往生がさだまったのであるから、その恩を忘れないのが信心である、と言うのですが、これは大変なあやまりです」)と

これは「十劫(じっこう)安心(あんじん)」(あるいは「十劫(じっこう)秘事(ひじ)」)とよばれ、異安心として退けられるのですが、ぼくはこの蓮如のことばを読むたびに、何か自分のことを指さされているような感じになり、こころが落ち着かなくなります、「オレは異安心なのか」と。異安心とは、親鸞の正統な教えをゆがめる誤った見解で、キリスト教においては異端とよばれるものに当たります。この異端というレッテルは破門や火あぶりと結びつき、そのことば自体恐ろしさがつきまといますが、異安心にも似たような響きがあります。そこには大きな問題が潜んでいるような気がするのですが、それについてはまたをみてじっくり検討することにしていまは「十劫安心」がどうして「おきなるあやまり」なのかを考えておきたい。

「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへる」ということは、経にそのように書かれており、浄土の教えはそれに依拠しているのですから、決して「あやまり」ではありません。では何が問題なのかといいますと、そのように人に向かって説いているものが、己の身の上にそれを証していないということです。誓願が成就したのは十劫のむかしであるのは間違いありませんが、時間が十劫のむかしで止まっていて、その人の身の上に「いま」誓願が成就していないということです。

信心が定まらなくても往生はもう定まっています。ただ、信心が定まらないということは、そのことに気づいていないということに他ならず、迷いのなかをさまよい続けているということです。


タグ:親鸞を読む
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