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かかるあさましき罪業 [「『おふみ』を読む」その24]

(11)かかるあさましき罪業

少し前のところでこう言いました、蓮如の語りは「ここに客観的な真理がある」と言っているような気がすると(7)。親鸞によって確立され、覚如・存覚によって磨き上げられてきた間違いのない浄土の教えがここにあります、これを「一心にふたごころなく」むねにおさめればいいのです、と言っているように聞こえるのです。そのことを、親鸞浄土教にとって要である「かかるあさましき罪業」の意識、すなわち機の深信について見ていきたいと思います。

蓮如は機の深信こそ親鸞浄土教のエッセンスであることを的確にとらえていることは前にお話しした通りで、「当流のおもむき」を説くときには機の深信を欠かすことはありません。ただ、そのときの語り口が問題です。同じことを語るにしても、その語り口というものがあり、ときには語りの内容よりも、その語り口の方が重要であることがあります。機の深信の場合などはその最たるケースではないでしょうか。ここでの蓮如の語りでは「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬるわれら」とあり、これは機の深信以外のなにものでもありません。ただ、これを全体のコンテキストのなかに置いたとき、どのようなニュアンスで伝わるか。これがぼくには、極端に言えば、数学の証明のように聞こえるのです。

定理1:われらごときのいたずらものは、あさましき罪業に朝夕まどっている。

定理2:弥陀の本願はどんな罪業があろうと、本願を信ずるあらゆる衆生をもれなく往生させてくださる。

ゆえに:一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあずかる。

この推論は文句なく正しい。しかし、この推論のなかのどこにも蓮如という人がいません。「われらのごときいたずらもの」も「あらゆる衆生」も、ただ一般的に「みんな」と言っているだけで、そこに蓮如という人の姿は浮き上がってきません。数学の証明というのはそういうものです。それをだれがするかが問題ではなく、その証明が正しいかどうかだけが問われるのです。


タグ:親鸞を読む
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