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明日もしらぬいのち [「『おふみ』を読む」その39]

(14)明日もしらぬいのち

文明5年の4月、蓮如59歳です。いつになく弱気が出ています。文末の一文からしますと、一種の遺言でしょうか。ここに油断ということばが二度出てきます。自分としては油断なく過ごしてきたつもりだが、みんなは大丈夫だろうか、いまは信心がさだまっているつもりでも、何かをきっかけに退転してしまわないか、と痛く心配しています。同年2月の1・5でも、大勢の人たちがこの吉崎に詰めかけてくるのはありがたいが、このうちどれだけの人が「しかしかと」他力の信心をえているだろうと疑っていました。そしてこの「おふみ」では、自分のいのちもそう長くはないと感じ、不安が嵩じている様子です。

さて、この「おふみ」に特徴的なのが「明日もしらぬいのち」という感覚です。蓮如は折にふれてこの「無常観」を持ち出します。なかでも有名なのが「白骨のおふみ」(5・16)でしょう。「されば朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば云々」とあります。これは日本の浄土教の底流として受け継がれてきた感覚で、『方丈記』や『平家物語』などの古典文学においてその主調音をなしてきました。この無常観と対となってきたのが厭世観です。この無常の世を厭い、はるかな浄土を仰ぎ見る。源信の「厭離穢土、欣求浄土」です。

しかし蓮如が「明日もしらぬいのち」を持ち出すのは、「はかないいのち」への単なる詠嘆ではなく、「なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ」というもっと切実な思いからです。朝には紅顔でも、夕には白骨となれる身なのだから、「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」(5・16)と言いたいのです。ここで油断ということばが出てくるのはそういう思いからです。


タグ:親鸞を読む
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