SSブログ

わが身に感受し頷く [「『おふみ』を読む」その25]

(12)わが身に感受し頷く

上で定理1としたのが機の深信で、定理2が法の深信です。しかし、機の深信も法の深信も数学の定理とは似ても似つかぬものです。「三角形の内角の和は二直角である」は客観的真理です。だから、みんなが納得できるように証明しなければなりません。しかし「われらごときのいたずらものは、あさましき罪業に朝夕まどっている」も「弥陀の本願はどんな罪業があろうと、本願を信ずるあらゆる衆生をもれなく往生させてくださる」も、ただこの自分がわが身にそのように感受し頷いているだけです。それを誰かに納得させなければならないものでも、証明しなければならないものでもありません。「自分がそれによって生き、それによって死ぬことができる真理」、つまり主体的真理です。

われらごときのいたずらものは、あさましき罪業にまどっている」と語るとき、それを客観的真理として語るか、それとも主体的真理として語るか。

『歎異抄』を読みますと、親鸞は肝心なところでは、かならず「親鸞は」と言います。「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(第2章)、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」(第5章)、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」(第6章)、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」(第9章)、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(後序)など。これが主体的真理として語るということです。わが身において感じ頷くということです。

一方、蓮如はといいますと、「当流においては」あるいは「親鸞聖人の一流においては」と語り、「蓮如においては」あるいは「わたしは」という語り方はしません。ここに両者の違いがはっきり出ているのではないでしょうか。

(第2回 完)


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問