SSブログ

ここに客観的な真理がある [「『おふみ』を読む」その20]

(7)ここに客観的な真理がある

蓮如の「十悪・五逆・謗法・闡提のともがら」と、親鸞の「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」。何も変わらないように見えるかもしれませんが、前者の「ともがら」には蓮如は含まれていませんが(「ともがら」とは自分のなかまたちのことで、そこに自分は入らないでしょう)、後者の「衆生」には親鸞その人が含まれていると感じるのです。また「考えすぎだよ」と言われるかもしれません。ここは是非ともみなさんがどう感じられるかをお聞きしたいところですが、ぼくとしては何度よみ返しても、そんなふうに感じられるのです。そして、そこには何か重大は問題があるように思えるのです。

「これは客観的な真理である」と語る場合と、「これは自分の身に感じられた」と語る場合の違い。

前者は、そう語る以上、人を説得できなければなりません。そうでなければ客観的な真理とは言えなくなります。ところが後者は、ただ自分が感じたままを語っているだけです。人を説得する必要はありませんし、またそんなことができるわけでもありません。別に人に語らなくてもいいのですが、どういうわけか、自分の身に感じられたことは、人に語りたくなるのです。釈迦の初転法輪もそうだったのではないでしょうか。釈迦はあること(縁起とか無我)を自分の身に感じた(感動した)が、最初のうちは、そんなことを人に語っても分かってもらえないだろうと、そのままにしていた。しかし、どうしても人に語りたくなって、元の修行仲間たちに語り出した、のではないか。

さて、親鸞の語りは、「自分の身に感じた」ことをそのままに人に語っているように思われます。ところが蓮如の語りは、「ここに客観的な真理がある」と言っているような気がするのです。「つみは十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくいまします、阿弥陀如来の本願なり」という真理があるのだから何の心配もいらない、安心してその真理に身を任せればいい、と。さてしかし、そう語るとき蓮如はどこにいるのでしょうか。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問