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お迎えがくる [『阿弥陀経』精読(その24)]

(5)お迎えがくる

 「臨終のとき」をあえて「いのちをはらんとき〈まで〉」と読むことにより、この文がほんとうに言わんとしていることを明るみに引きだそうとしているということです。善導は念仏の人のいのちが終わるそのときに、阿弥陀仏やその光明に遇うことができる(勝縁・勝境ことごとく現前せん)と言っているように見えるが、しかしその真意は、すでに信楽開発のときに阿弥陀仏とその光明に遇うことができているのであり、それはいのちが終わるときまでつづくということだ、と親鸞は解説してくれているのです。
 「お迎えがくる」と言います。「まあそろそろお迎えがくるころだ」と言ったり、場合によっては「はやくお迎えがきてほしい」などと言うこともあります。あるいは「ひとあし先に往って待っているよ」とも言いますし、「あの人もとうとう旅立ってしまった」という言いかたもあります。いずれもごく普通の言い回しであり、そこにはしみじみとした味わいがあります。親鸞も手紙の中でそのように言うことがあります、「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」などと。
 しかしこれらはみなあくまで方便としての言い方で、それが日常の言い回しとして定着しているということです。ほんとうのところはといいますと、もうお迎えはきてしまっているのであり、すでに往生の旅ははじまっているのです。本願に遇うことができたそのときに弥陀の来迎に与っており、そのときから正定聚として往生の旅のなかにあるのです。そのことさえはっきりしていれば、方便として「そろそろお迎えがくる」と言ったり、「先に往ってるからね」と言うことには何の問題もありません。そのときにはむしろ「お迎えがくる」ことや「先に往く」ことに親しみを感じてそう言っているのではないでしょうか。良寛の「死ぬる時節には死ぬがよく候」ということばも「いつお迎えがきてもいい」という心境を述べているのでしょう。そんなふうに言えるのも、実はもうお迎えはきてしまっているのであり、すでに往生の旅のなかにあると思えるからです。

タグ:親鸞を読む
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