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苦しみの根が断たれる [『観無量寿経』精読(その53)]

(13)苦しみの根が断たれる

 智慧の光は外からやってきて、知りたくないこと、隠しておきたいことを有無を言わさず明るみに引き出してしまうことを見てきました。
 さて問題はそれがなぜ救いをもたらすかということです。真身観では「念仏の衆生を摂取して捨てず」といい、観音観では「この宝手をもつて衆生を接引したまふ」といい、ここ勢至観では「三塗を離れしむるに無上力を得たまへり」とあります。われらはこの光明と名号に遇うことによってはじめてこの生死の苦海を安心して渡ることができるとされ、「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」(『教行信証』総序)と歓喜の声が上げられるのはどういうことでしょう。あれほど見たくない、知りたくないと押さえつけてきたことを目の当たりにすることが、どうして喜びになるのでしょう。
 我執に気づき、それがあらゆる苦しみの正体であることに気づくことで、驚くなかれ、我執から解き放たれ、苦しみの根が断たれるからです。
 大急ぎでつけ加えなければなりませんが、我執から解き放たれるとは、我執がなくなることではありません。また、苦しみの根が断たれるとは、苦しみがきれいさっぱりなくなることではありません。我執に気づいても、我執がなくなることはなく、したがって苦しみもなくなりませんから、その意味では何も変わらないとも言えます。でも、何かが違い、それが決定的に重要な意味を持つのです。ただ、この「何か」をことばにするのがとてつもなく難しい。苦しみの正体は我執であると気づく前(智慧の光が当たる前)の苦しみと、苦しみの元凶は我執だと気づいた後(智慧の光が当たった後)の苦しみとでは、同じ苦しみでもその質が変わっているのです。
 ここでスピノザのことばを紹介したいと思います。「苦悩という情動は、われらがそれについて明晰判明に表象するやいなや、苦悩であることを止める」(『エチカ』第5部)。苦悩について明晰判明に表象するとは、苦悩の正体に気づくということであり、そのとき苦悩はもとの苦悩ではなくなるというのです(病の正体を知ることで、病の苦しみが和らぐのと同じです)。これを先ほど苦しみの根が断たれると表現したわけです。

タグ:親鸞を読む
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