SSブログ

孫悟空 [「『証巻』を読む」その121]

(8)孫悟空

しかし「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であり、「わたしのはからい」はみな「ほとけのはからい」の掌の上にあることに気づいたとき、それで「わたしのはからい」が消えるわけではありませんが(われらはいのちある限り「わたしのいのち」を「わたしのはからい」で生きるしかありません)、それは取りも直さず「ほとけのはからいの掌の上のことですから、そう思えることで「わたしのはからい」の色は次第に薄くなっていきます。そして「ほとけのはからい」に生かされていることに慶びを感じることがいよいよ濃くなっていきます。

これを思うとき、いつもぼくの頭に浮ぶのはあの孫悟空です。「わたしのはからい」の力に驕り高ぶる孫悟空に、お釈迦さまが「おまえは世界の果てまで行ってくることができるか」と尋ねられると、孫悟空は「へん、お安い御用」とばかり、筋斗雲に乗って世界の果てを目指します。そして巨大な五本の岩の柱のところまで行きつき、ここが世界の果てに違いないと、その岩に小便をひっかけて、また戻ってきたところ、何と自分はお釈迦さまの掌の上にいて、お釈迦さまの指には小便のあとが、というあのお話です。われらは何ごとも「わたしのはからい」でしていると思っているが、それはみな「ほとけのはからい」の掌の上でのことであることを何とも印象的に教えてくれます。

「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」心はたしかに「わたし」におこりますが、しかし決して「わたし」がおこしているのではなく、そこには「ほとけのはからい」があり、そのはからいにもよおされて「わたし」におこるということです。「宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義(じんぎ)を弘宣(ぐせん)したまへり」とはそういうことです。少し前のところで、還相のはたらきとは、娑婆を浄土にしていくことではないかという考えを取り上げましたが(4)、その考えのベースには、何ごとも「わたしのはからい」によるという思いがあるのではないでしょうか。それは他利と利他を混同していると言わざるを得ません。

(第12回 完)


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。