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弟子一人ももたず [「『おふみ』を読む」その8]

(8)弟子一人ももたず

ここで蓮如が「故聖人のおおせ」と言っているのは、言うまでもなく『歎異抄』第6章のことです。そこにある親鸞のことばを蓮如流に解説しているのです。『歎異抄』のことばも著者・唯円のフィルターを通っていますから、親鸞のことばそのものとは言えませんが、それでも親鸞自身から直に聞いたことばですからオリジナルに近いと考えていいでしょう。それを上げておきましょう。

「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんと申すにや、かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。」

短いことばでピシッと言いたいことを言っていることに舌を巻きます。もうグーの音もでないというところです。蓮如はこれを咀嚼して自分のことばに置き換えているのですが、そこにはおのずから蓮如らしさが顔を出します。親鸞としては「わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせ」ているのではなく、その人自身が「ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて念仏もうし」ているだけだと言いますが、蓮如はそれを「ただ如来の御代官をもうしつるばかり」であると言うのです。分かりやすく解説しているとも言えますが、そこに何かしら微妙な違いが浮かび上がってこないでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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