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『無量寿経』とは [『教行信証』精読(その29)]

(4)『無量寿経』とは

 さて『無量寿経』です。ここに真理が説かれているとされるこの経典はどのようなものか。親鸞はこの経の大意を次のように要約します、「弥陀・誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり」と。あまりに短く、その意を取るのに苦労します(そもそも教巻自体が他の巻と比べて極端に短いことに戸惑います)が、目を引くのは弥陀と釈迦が対になっていることです。
 まず弥陀について、大いなる誓いをたて、真理の蔵の中から、あわれな凡夫のために特に選んで「功徳の宝」を施してくださったと述べられます。この一文は『無量寿経』のいわゆる「重誓偈」に「衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん」とあるのに拠っていますが、ここで「功徳の宝」とは名号をさすと考えていいでしょう。南無阿弥陀仏の六字にあらゆる功徳の宝が詰め込まれているということです。のちに行巻においてこの六字について驚くべき解釈が施され、南無とは帰命であり、帰命とは「本願招喚の勅命」であるとされます。平たく言えば「帰っておいで」という弥陀の呼びかけであるというのです。
 次いで釈迦について、この世にお出ましになられたのは、群萠を救うために「真実の利」を恵まんとするためであると述べられます。この一文も『無量寿経』序分の「(如来が)世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萠を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲(おぼ)してなり」とほぼ同じです。そしてこの「真実の利」について、親鸞自身が『一念多念文意』において、こう述べています、「真実之利と申すは、弥陀の誓願を申すなり。しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり」と。
 弥陀が名号という「功徳の宝」を施してくださり、釈迦が弥陀の本願という「真実の利」を与えてくださるということですが、名号といい本願というも別ものではありません。本願を南無阿弥陀仏の六字に約めたものが名号ですから、それは弥陀の功徳が詰まった宝であり、釈迦はそれを説くことでわれらに真実の利を与えてくださるのです。

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それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり [『教行信証』精読(その28)]

(3)それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり

 そんな思いをよそに、「往相の回向について真実の教行信証あり」と話が先に進んでいきます。そして「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」とつづきますから、読む側としては、「そうか、まずは往相の教行信証について述べられるのだな。そしてのちに還相の教行信証が話題とされるのだろう」と予想するのですが、先の目次にありましたように、教・行・信・証の各巻のあとは、真仏土・化身土の巻があるのみで、還相が取り上げられそうにありません。どうなっているのだろうと読み進めますと、「証巻」の後半にきて還相が登場します。
 かくして往相と還相の関係についてはますます疑問が膨らみますが、いまその問題を取り上げることはできません。課題として残したまま、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」という一文について考えていきましょう。ここで「真実の教」といいますのは「真実の教が述べられた経典」の意味で、それは『大無量寿経』だというのです。仏法が説かれている経典は小乗・大乗それぞれ無数にありますが、その中で真実の経典と言えるのはただひとつ『無量寿経』であると言う。天台宗は『法華経』に、華厳宗は『華厳経』に、真言宗は『大日経』にそれぞれ依拠するように、浄土真宗は『無量寿経』に依拠するという宣言です。
 法然はといいますと「三経・一論」を上げます、「三経とは、一には無量寿経、二は観無量寿経、三は阿弥陀経なり。一論とは、天親の往生論これなり」(『選択本願念仏集』)と。いわゆる浄土三部経を依拠する経典として上げているのですが、親鸞はそのなかで『無量寿経』ひとつに絞るのです。では『観無量寿経』や『阿弥陀経』は真ならぬ偽であるというのでしょうか。そうではありません。親鸞にとって真に対するものとして偽と化の二つがあります。偽は、言うまでもなく、真に反するものですが、化は、それ自体としては真ではありませんが、真へと導く方便です。『観無量寿経』や『阿弥陀経』は真ではないが、偽でもなく、化であるというのが親鸞のとった解釈です。表だって現れている教説(顕)は『無量寿経』に反するように見えるが、その奥に隠れている真意(隠)は『無量寿経』と同じであるとするのです(こうした論点は最後の「化身土巻」で展開されます)。

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往相と還相 [『教行信証』精読(その27)]

(2)往相と還相

 浄土真宗ということばは親鸞を宗祖とする一つの宗派をさすのが普通ですが、親鸞自身が浄土真宗と言うときは、法然上人が伝えてくださった浄土の真実の教えという意味です。親鸞にとって真実の教えはただひとつであり、自分としてはただそれを正しく受け継ぐだけで、何か新しい教えや宗派を開こうなどという気持ちは微塵もありません(法然の浄土宗に取って代わる新しい教えや宗派を意識的に打ち出そうとしたのは、親鸞のひ孫にあたる覚如です)。
 さて教巻の冒頭に、したがって本文の冒頭ということですが、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と一切の説明抜きで宣言されます。
 まず往相・還相ということばは曇鸞が『浄土論註』のなかでつかっているもので、往相とは浄土へ往く相(すがた)を、還相とは菩薩として穢土に還り、有縁の衆生を済度する相(すがた)をさします。ですから自利の相と利他の相と言っても同じです。救いと言うとき、みずからが救われていく相(これが往相、自利です)と同時に、他の衆生を救う相(これが還相、利他です)があるということです。自分だけの救いはなく、他の衆生とともに救われるしかないというのが大乗の菩薩思想です。
 次に大事なことは、親鸞が回向と言うとき、例外なく如来の回向であるということです。往相も還相もみな如来の回向(如来からの賜物)であるということ、これを忘れないようにしたいと思います。われら自身が救われるのも、他の衆生を救うのも、みな如来の力によるということですが、さてしかし、みずからが救われる往相と、他の衆生を救う還相とはどのような関係になっているのだろうという疑問がうかびます。「往く」と「還る」ということばがつかわれていますから、まず往相があり、しかる後に還相があるのだろうと思うのが普通ですが、はたしてそれでいいのでしょうか。
 まずわれら自身が浄土へ往生させていただき、その後に(死んだ後に?)還相の菩薩として穢土へ還ってきて衆生済度の仕事をさせていただく。この理解でいいのでしょうか。

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本文1 [『教行信証』精読(その26)]

                第3回 教巻

(1)本文1

 これより教巻に入ります。まず「顕浄土真実教文類 一」と題名が掲げられ、下に「愚禿釈の親鸞の集」とあります。そして本文がはじまります。

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
 それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発(ちょうほつ)して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡(こうせん)して、群萠を拯(すく)ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲(おぼ)すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致(しゅうち)とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。

 (現代語訳) 謹んで浄土の真実の教えを考えてみますと、二種類の廻向、すなわち如来からの賜物があります。一つは往相廻向で、われわれが浄土へ往生させていただくということ、もう一つは還相廻向で、われわれがこの穢土に還り衆生済度のために働かせていただくということです。そして往相廻向について、真実の教と行と信と証があります。
 さて、真実の教は『無量寿経』に説かれてあります。この経の大意はと言いますと、阿弥陀仏が一切衆生を救おうという誓願を立てられ、広大な法(真理)の蔵の中から、哀れな凡夫たちのために、特に選んで功徳の宝、すなわち南無阿弥陀仏の名号を与えてくださったということです。そして釈迦如来がこの世に現れ、この道理を明らかにして、人々を救うために真実の利(名号のこと)を伝えてくださったのです。こういう訳で、阿弥陀仏の本願がこの経の本質です。そして阿弥陀仏の名号がこの経の根幹です。

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行と信 [『教行信証』精読(その25)]

(13)行と信

 行と信は一体不離であるにもかかわらず、なぜ行巻と信巻に分けられたかを考えるに当たり、「行巻」の末尾に正信偈がおかれ、それにつづく「信巻」には特別に序が設けられていることに着目したいと思います。まず正信偈ですが、行巻の末尾におかれているものの、その内容からして、行巻のまとめというよりも、『教行信証』全体の要約と言うべきものです(蓮如はそこに目をつけ、正信偈の読誦を日々の勤行の中心に位置付けたのでしょう)。つまり正信偈においては行と信はまったく渾然一体であり、行巻全体が信と一体不離である行について説かれているのです。
 ところが、その後に「信巻」がおかれ、しかも他の巻にはない序がつけられています。その序にこんな文言が見えます、「真心(真実の信心)を開闡(かいせん、ひらけおこること)することは、大聖(釈迦のこと)矜哀(こうあい)の善巧(ぜんぎょう)より顕彰せり。しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心(じしょうゆいしん、要するに自力のこと)にしづんで、浄土の真証を貶す」と。真実の信心は「如来よりたまわりたる」ものであるにもかかわらず、この頃の人々はそれを自力の信心にしてしまっていると言うのです。そこで「愚禿釈の親鸞」(親鸞は特に大事なことを言うときには、このように己の名前を出します)が、真実の信心について説かれた文類を集めたいと言います。
 行と信はひとつのものとして「如来よりたまわる」にもかかわらず、ともすると念仏している人に真実の信心が欠けていることがあり、したがってその念仏が自力の念仏になってしまっていることがあります。そのことを親鸞はこんなふうに述べています、「真実の信心は、かならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(信巻)と。真実の信心があれば、それにはかならず念仏が伴うが、一方、念仏があるからといって、そこに真実の信心がないことがあるというのです。そこで、あえて信巻を設け、「諸仏如来の真説に信順して、論家釈家の宗義を披閲」し、真実の信心、如来よりたまわりたる信心とは何かについて考えていきたいというわけです。
 このように行と信は一体不離ではあるものの、他力の信心とは何かを明らかにするためにあえて信巻が設けられたと考えられます。

                (第2回 完)

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目次 [『教行信証』精読(その24)]

(12)目次

 さて序の後、次のようにつづきます。

 大無量寿経 真実の教 浄土真宗
  真実の教を顕す 一
  真実の行を顕す 二
  真実の信を顕す 三
  真実の証を顕す 四
  真仏土を顕す  五
  化身土を顕す  六

 最初の一行は、次の教巻の冒頭におかれるべきものかもしれません。行巻の冒頭には「諸仏称名の願 浄土真実の行 選択本願の行」とあり、信巻の冒頭は「至心信楽の願 正定聚の機」とありますように、それぞれの巻の冒頭に拠るべき願が掲げられますが(標挙の願とよばれます)、教巻の冒頭には「大無量寿経 真実の教 浄土真宗」と掲げられるのがふさわしいように思われます。しかし、この後に各巻の題名が上げられ、目次にあたるものがつづきますので、序の最後におかれることになったのでしょう。
 さてこの書物のタイトルは『顕浄土真実教行証文類(浄土の真実の教・行・証を顕す文類)』であるにもかかわらず、実際は教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・化身土巻の六巻構成になっています。それぞれの巻の内容については、それぞれのところで述べることにしまして、ここでは、伝統的な教・行・証の三法構成(教えと、それにもとづく行、そしてその成果としての悟りのことで、この書物のタイトルもその伝統にのっとっています)が、そこにあえて信巻を加えることで四法構成になっていることについて、ひと言述べておきたいと思います。
 親鸞にとって行と信はひとつであり、これが行でこれが信と分けられるものではありません。序の第2段に「もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。…たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」とありましたように、「行信」と一体にしてよばれるものです。にもかかわらず行巻と信巻とに分けられたのはどうしてでしょう。

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「いま」と「すでに」 [『教行信証』精読(その23)]

(11)「いま」と「すでに」

 本願に遇うことについては「いま」と言われ、本願を聞くことは「すでに」と言われます。何げなく言われたのでしょうが、でもこの言い回しから、本願に遇うということ、本願を聞くということの本質を垣間見ることができます。本願に「いま」遇うというとき、その「いま」は「永遠のいま」であると述べましたが、本願を「すでに」聞くということは、本願を聞くのは「もうすでに聞いてしまった」というかたちでしかないということ、「これから聞く」ことはないということを意味します。それは、本願は「こちらからゲットする」ものではなく、「むこうからゲットされる」ものであることからおのずと明らかになります。
 「こちらからゲットする」のでしたら、「もうすでに」ゲットした場合もあれば、「これから」ゲットすることもあります。でも「むこうからゲットされる」ことは、ゲットされてはじめてそのことに気づくのです。ということは、まだゲットされていない人は、ゲットされていることがないのはもちろん、ゲットされていないこともありません。したがって「これから」ゲットされると思うことはありません。すでにゲットされた人が、まだゲットされていない他の人について、「これから」ゲットされるに違いないと言うことはありますが、まだゲットされていない本人が「これから」ゲットされると思うことは原理的にありえないのです。
 本願に遇うのは「いま」であり、本願を聞くのは「すでに」であるとしますと、「いま」とは実は「すでに」であり、「すでに」は実は「いま」であるということです。本願に遇ったのが「すでに」過去のことであっても、「いま遇った」と言われるのは、「いま」とは実は「すでに」ということであり、本願を聞いたのが「いま」であっても、「すでに聞いた」と言われるのは、「すでに」とは実は「いま」ということであることを意味します。本願に遇う「いま」は「永遠のいま」であるということは、それは「悠久の過去」、どんな過去よりさらに過去であるということに他なりません。

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聞きがたくしてすでに聞くことを得たり [『教行信証』精読(その22)]

(10)聞きがたくしてすでに聞くことを得たり

 次に「聞く」ということ。本願に遇うということは、本願を聞くということです。
 聞くといっても、声や音が自然に耳に入ってくる場合と、音楽や話に耳をそばだてて聞く場合(こちらは聴くとすることが多いですが)があります。本願を聞くというときも、この二つの場合がありますから、きっちり区別することが肝要です。といいますのは、前にも少しふれましたように(5)、本願を聞くことを本願の「いわれ」を聞くことだとしてしまうことが多いからです。本願の「いわれ」を聞くのは「耳をそばだてて聞く」ことですが、本願そのものはむこうから聞こえてくるのです。この二つはまったく別であるということ、これを忘れることはできません。
 親鸞は「信巻」でこう言っています、「経に聞といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)をききて疑心あることなし、これを聞といふなり」と。ここで「仏願の生起本末」とありますのは、紛れもなく本願の「いわれ」のことで、それをしっかり耳をそばだてて聞かせていただくということです。ところが『一念多念文意』では同じ「聞其名号」について、こう言います、「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」と。「仏願の生起本末をきく」に代わり「本願の名号をきく」と言われ、また「本願をきく」とだけ言われます。これは本願(そして名号)がむこうから聞こえてくるということです。
 ぼくらは経典や善知識から本願というものについて、その「いわれ」を聞かせていただき、それについてあれこれと思い巡らしますが、それは本願(そして名号)が思いがけず聞こえてくることとは別のことです。本願の「いわれ」を聞かせていただくことがなければ、本願そのものが聞こえてくることはありませんが、その「いわれ」を聞かせていただいたからと言って、本願そのものが聞こえたということにはなりません。本願について語られることばを聞くことと、本願そのものを聞くことはまったく別のことです。

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遇ひがたくしていま遇ふことをえたり [『教行信証』精読(その21)]

(9)遇ひがたくしていま遇ふことをえたり

 親鸞は「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と言いますが、これまでも折にふれて指摘してきましたように、親鸞浄土教(それは本願というただひとつの真理についての親鸞自身の語りです)にとって「遇ふ」ということばと「聞く」ということばが重要な鍵となります。本願は遇うものであり、聞くものであるということです。
 まずは「遇う」ことから。これまで繰り返し「むこうからゲットされる」という言い方をしてきましたが、これがまさしく「遇う」ということです。むこうからやってきた何かに思いがけず遇い、それに鷲づかみされるということ。それに対して、誰かに「会う」場合は、まずもって自分でその手はずを整えなければならず、その上で、その人との会見を「こちらからゲットする」のです。
 本願はそのようにこちらから会うのではなく、ばったり遇うのであるということ、ここに本願の本質があります。
 すぐ頭に浮ぶのは天親『浄土論』の「仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うてむなしくすぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」という文言です。本願(力)はひとたび遇うことができさえすれば、もう功徳の大宝海に入ることができるというのです。ところで親鸞は本願に「いま」遇うと言います。これは、この文を書いたそのときに遇ったということではないでしょう。
 はじめて遇ったのはずっと前のはずですが(後序に「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行をすてて本願に帰す」と書いていますから、それは親鸞29歳のときです)、しかし「いま」遇うと言う。それは「永遠のいま」と言うべきでしょう。時間のなかに永遠がふいっと姿を現したとき、それが「いま」です。それは建仁辛の酉の暦でもあり、『教行信証』の序を書いている時でもあり、本願に遇うのはいつでも「いま」でしかないのです。

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経・論・釈の引用 [『教行信証』精読(その20)]

(8)経・論・釈の引用

 はじめて『教行信証』を読んだとき、そのほとんどが経・論・釈の引用で、親鸞自身のことばはその谷間に埋もれてしまっているのを見て、これは一体どういう書物だろうと感じたことを想い出します。普通の書物は、自説を述べるために、その裏づけとして他から引用するだけなのに、この書物は教・論・釈の引用が中心となっていて、自説らしきものがほとんどないというのは、書物という名に値しないのではないかという感覚です。しかし、これは親鸞の思いがまったく分かっていなかったということです。
 もう一度「こちらからゲットする真理」と「むこうからゲットされる真理」を持ち出しますと、前者は「日々新た」であり、「これこそ自分が発見した新しい真理である」と主張するために書物が著されます。ところが後者は「天が下に新しきものなし」(『旧約聖書』)であり、真理はひとつしかありません。ただ、それにゲットされた人が、それをどう語るかはそれぞれに特徴があり、そこにおのずと個性が現れます。親鸞が語ろうとしているのは言うまでもなく後者の真理です。
 親鸞は自分がゲットした新しい真理を語ろうとしているのではなく、自分がゲットされたただひとつの真理を語ろうとしているのです。そしてその真理はもうすでに多くの人たちによってそれぞれに語られてきています。親鸞自身は法然上人が語ったことばを通して、ただひとつの真理にゲットされたのですが、法然上人もまた善導大士が語ったことばを通して、ただひとつの真理にゲットされたのです。そのあたりの消息が『歎異抄』第2章に記録されています。
 「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」と。親鸞は「詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし」と言いますが、彼にとって弥陀の本願という真理はこのように人々の手でリレーされていくものなのです。親鸞もまたその走者の一人としてリレーに参加するだけであり、すでにさまざまに語られてきた本願の真理について、その「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずる」だけなのです。

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